竹田定加
表示
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
---|---|
生誕 | 天文15年(1546年) |
死没 | 慶長5年6月17日(1600年7月27日) |
改名 | 梵松丸、雄誉 |
戒名 | 彭雲院光英 |
官位 | 法眼、法印 |
父母 | 竹田定珪、中務大輔則季女 |
兄弟 | 周桃、女子、定加、女子、女子、定成、兵庫允、女子 |
妻 | 松平家次女 |
子 | 定白、秀慶、定宣、見孝、定賢、清安 |
竹田 定加(たけだ じょうか)は、戦国時代から安土桃山時代の医師。竹田法印と称される。
生涯
[編集]天文年間に父定珪が死去したために家督を相続。腹診をよく行ってこれを広めた。元亀2年(1571年)正親町天皇の脈を取り平癒させたため、法眼に叙される。天正9年(1581年)には女官の治療に貢献したことにより法印に昇進する。豊臣秀吉と親交が深く、特に秀吉生母大政所を快癒させた際には多大な恩賞を得ている。その他、曼殊院覚恕、羽柴秀勝、丹羽長秀、顕如などを治療している。文禄2年(1593年)文禄の役講和のために来日した謝用梓らが発病した際、処方を行うなど対応して親交を深めた。徳川氏に対しても徳川秀忠の娘の処方を行っている。慶長2年(1597年)秀吉が病床に伏した際、出仕がなかったために罰せられた。慶長5年(1600年)に死去。子孫は豊臣家を離れ、江戸幕府に仕えた。