竹本小土佐
竹本 小土佐 (たけもと ことさ、明治5年4月23日(1872年5月29日) - 昭和52年(1977年)1月1日[1])は、明治-昭和時代の女義太夫の太夫。本名は本多つま。
経歴
[編集]1872年4月23日、愛知県名古屋市生まれ。初め湊太夫につき義太夫を稽古するが、湊大夫が死去したため照吉に学ぶ。10歳の時妻吉と称し、照吉の一座と名古屋富本亭にて興行。竹本土佐太夫の「谷三」を聴き音調の巧みなるに感じて11歳で5代竹本土佐太夫に入門。小土佐を名乗る。師とともに大阪などで出演。1886年東京に移り、上野池之端吹抜亭で真打となり、初代竹本綾之助と人気を争った。
1903年結婚。1921年、病気のため名古屋に帰り静養、のち名古屋、女義界の代表的存在となった。1925年、再度上京。竹本播磨太夫らの正義派(山田派)に参加。女義太夫のスターとして活躍。以後後進の育成に努めた。「傾城阿波鳴門」などを得意とした。104歳で死去。
エピソード
[編集]俳人の高浜虚子が入れあげ、自宅まで訪ねていったという。虚子の小説『俳諧師』に登場する小光のモデルといわれている。小土佐92歳のときの短冊に「其昔思ひ出深き俳諧師」がある。([2])
参考文献
[編集]- 『20世紀日本人名事典』
- 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』
- 倉田喜弘『明治大正の民衆娯楽』(岩波文庫)
- 「義太夫雑誌」 5:5-6(竹本小土佐子伝)・
- 「義太夫雑誌」 45:18-19(評判)
竹本小土佐これぞ女義太夫の名前、妻吉の昔われは知らず、禿切(かぶきり)の延て間もなき優美(やさし)き体に憶面なく吾ぞ師匠が一粒撰(えり)の門弟、土佐太夫が化たと思召て幾久敷御愛顧(ひゐき)をと一枚看板に勘亭流の銘打て片頬の靨(えくぼ)に聴客を丸め涼き瞼に仲間の膽を拉(ひじ)き、横紙破しは抑や十四の暁、京橋の鶴仙が名を売る三番叟の舞台、白石の揚屋安達の三、廿四孝の四、先代の飯焚(まゝたき)は小さ喉から馴染のある語物、やんやと誉らるゝ噂の種なりしも、大隅太夫が先年上京の折、手づから受けし壺阪の一曲、珍らし〃とて人も好めは己も励み、一席ごとに味を遣(や)るが人気に嵌り壺坂の小土佐と今は世間に唄はるゝ身の上 天神町三丁目三番地 本多ツマ事 竹本小土佐