竹内茂代
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竹内茂代 たけうち しげよ | |
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生年月日 | 1881年8月31日 |
出生地 |
日本 長野県南佐久郡原村 (現・川上村) |
没年月日 | 1975年12月15日(94歳没) |
死没地 | 日本 茨城県水海道市 |
出身校 | 東京女医学校卒業 |
前職 | 医師 |
現職 | 医師 |
所属政党 | 日本自由党 |
称号 | 医学博士(1933年・東京帝国大学) |
配偶者 | 竹内甲平 |
選挙区 | 東京都第1区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1946年 - 1947年3月31日 |
竹内 茂代(たけうち しげよ、1881年8月31日 - 1975年12月15日[1][2])は、日本の医師(医学博士)、政治家。
経歴
[編集]長野県南佐久郡原村(現川上村)で庄屋を世襲した家系で、元村長・元郡会議員井出喜重の長女として生まれた。1907年、東京女医学校(現東京女子医科大学)を卒業[1]。女性としては27番目の医師となった[2][3]。同年夏には、自殺を図った原阿佐緒の治療にあたった[4]。1916年医師の竹内甲平と結婚し、1919年新宿に井出医院を開業する傍ら、市川房枝らと社会運動に参加、婦人参政権運動の財務理事を務めた。1933年東京帝国大学医学博士[注釈 1]。論文の題は「日本女子の體質に関する研究」[5]。
1946年東京都第1区から第22回衆議院議員総選挙出馬し、女性として初めて当選、日本自由党に属し総務及び婦人部長を務めたが、翌年公職追放となった[6]。その後は医業に専念。文部省嘱託、厚生省体力審議会専門委員、引揚援護院参与、結核予防東京婦人委員会副委員長、日本女医会副会長のほか大妻専門学校講師などを歴任した。
1975年12月15日、茨城県水海道市の自宅で死去した[2]。
著作
[編集]- 『初旅の北海道』1936年。NDLJP:1036960
- 『一般家庭看護学』厚生閣、1940年。NDLJP:1072325
- 『一般育児学』厚生閣、1942年。NDLJP:1045461
- 『結婚の栄冠強い赤ん坊の出生愛育実記』大日本健康報国実践会、1943年。NDLJP:1045746
- 『婦人特別衛生』吐鳳堂、1947年。NDLJP:1046440
- 『優生結婚』万葉出版社、1949年。NDLJP:1159189
- 『八十路の歩み』女性問題研究所、1961年10月。
- 『吉岡弥生先生と私』金剛出版、1966年。NDLJP:2984179
出典
[編集]注釈
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 坂本令太郎『近代を築いたひとびと 5』1978年
- 小林朋子『朝未き頃 時代を紡いだ信州の女性たち』信濃毎日新聞社、2006年