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竹内茂代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
竹内茂代
たけうち しげよ
1926年12月13日、「婦選獲得同盟」の満2周年記念会が開かれた。前列左から市川房枝金子しげり、大平悦子。中列左から八木橋きい子、久布白落実、荻原真子。後列左から田中芳子、竹内茂代、岡田京子。
生年月日 1881年8月31日
出生地 日本の旗 日本 長野県南佐久郡原村
(現・川上村
没年月日 (1975-12-15) 1975年12月15日(94歳没)
死没地 日本の旗 日本 茨城県水海道市
出身校 東京女医学校卒業
前職 医師
現職 医師
所属政党 日本自由党
称号 医学博士(1933年・東京帝国大学)
配偶者 竹内甲平

選挙区 東京都第1区
当選回数 1回
在任期間 1946年 - 1947年3月31日
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竹内 茂代(たけうち しげよ、1881年8月31日 - 1975年12月15日[1][2])は、日本医師医学博士)、政治家

経歴

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長野県南佐久郡原村(現川上村)で庄屋を世襲した家系で、元村長・元郡会議員井出喜重の長女として生まれた。1907年、東京女医学校(現東京女子医科大学)を卒業[1]。女性としては27番目の医師となった[2][3]。同年夏には、自殺を図った原阿佐緒の治療にあたった[4]1916年医師の竹内甲平と結婚し、1919年新宿に井出医院を開業する傍ら、市川房枝らと社会運動に参加、婦人参政権運動の財務理事を務めた。1933年東京帝国大学医学博士[注釈 1]。論文の題は「日本女子の體質に関する研究」[5]

1946年東京都第1区から第22回衆議院議員総選挙出馬し、女性として初めて当選、日本自由党に属し総務及び婦人部長を務めたが、翌年公職追放となった[6]。その後は医業に専念。文部省嘱託、厚生省体力審議会専門委員、引揚援護院参与、結核予防東京婦人委員会副委員長、日本女医会副会長のほか大妻専門学校講師などを歴任した。

1975年12月15日、茨城県水海道市の自宅で死去した[2]

著作

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  • 『初旅の北海道』1936年。NDLJP:1036960
  • 『一般家庭看護学』厚生閣、1940年。NDLJP:1072325
  • 『一般育児学』厚生閣、1942年。NDLJP:1045461
  • 『結婚の栄冠強い赤ん坊の出生愛育実記』大日本健康報国実践会、1943年。NDLJP:1045746
  • 『婦人特別衛生』吐鳳堂、1947年。NDLJP:1046440
  • 『優生結婚』万葉出版社、1949年。NDLJP:1159189
  • 『八十路の歩み』女性問題研究所、1961年10月。
  • 『吉岡弥生先生と私』金剛出版、1966年。NDLJP:2984179

出典

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注釈

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  1. ^ 女性としては日本で5人目の取得[3]

脚注

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  1. ^ a b 激動の日本政治史 : 明治・大正・昭和歴代国会議員史録 下 664コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  2. ^ a b c 月刊婦人展望 (248) 3コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  3. ^ a b 昭和五十年の婦人の歩み : 国際婦人年を記念して 52コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  4. ^ 『明治百年100大事件 下』松本清張、三一書房、1968年、p25
  5. ^ 博士論文書誌データベースによる
  6. ^ 『朝日年鑑』1948年版、175頁、「公職追放」。

参考文献

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  • 坂本令太郎『近代を築いたひとびと 5』1978年
  • 小林朋子『朝未き頃 時代を紡いだ信州の女性たち』信濃毎日新聞社、2006年