竜建章
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竜建章 | |
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プロフィール | |
出生: | 1872年(清同治11年) |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清広東省広州府順徳県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 龍建章 |
簡体字: | 龙建章 |
拼音: | Lóng Jiànzhāng |
ラテン字: | Lung Chien-chang |
和名表記: | りゅう けんしょう |
発音転記: | ロン ジエンジャン |
竜建章(りゅう けんしょう)は、清末民初の政治家。北京政府の要人。字は伯敭[1]。
事跡
[編集]1904年(光緒30年)、甲辰科進士となる。公立京師大学堂(北京大学の前身)を卒業した。以後、戸部主事、吏部員外郎、郵伝部郎中、出使各国考察憲政大臣参賛、郵伝部参議を歴任した。
中華民国成立後の1912年(民国元年)5月、北京政府の交通部参事となる。翌年、交通部電政司司長となった。その年末には郵伝局局長に任じられている。1914年(民国3年)5月、約法会議議員となる。
同年7月、貴州省黔中道尹に異動する。同年11月、署理貴州巡按使となり、1915年(民国4年)11月、正式に同職に就任した。12月、袁世凱が皇帝に即位すると、竜建章は一等男に封じられ、貴州護軍使劉顕世とともに、袁への支持を表明している。
反袁世凱の護国戦争が勃発すると、竜建章は貴州にあって袁を支持する姿勢を保とうとする。ところが翌年1月に、劉顕世も省内の圧力に耐えかねて反袁の姿勢を明らかにした。これにより孤立した竜は、貴州から逃亡してしまったのである。
1917年(民国6年)6月、竜建章は李経羲内閣で署理交通総長に任じられた。張勲復辟の中断を経て、段祺瑞内閣でも当初は留任したが、7月中に辞任した。
以後、竜建章の行方は不明である。
注
[編集]- ^ 「敭」は「揚」の異体字。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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