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穆姫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
穆姫
の公爵夫人
穆姫は恵公の赦免を願った。『東周列国志』より。

配偶者 穆公
子女 康公
公子弘
簡璧
氏族
父親 献公
母親 斉姜
出身諸侯国
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穆姫(ぼくき、生没年不詳)は、穆公の夫人。

生涯

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献公の娘として生まれた。太子申生の同母姉にあたり、公子重耳や公子夷吾とは異母の姉弟にあたる。紀元前656年、献公が太子申生を殺害すると、公子重耳は蒲に、公子夷吾は屈に逃亡した[1]驪姫の乱)。

紀元前655年、穆姫は秦の穆公にとついだ[2]。このとき百里奚が穆姫に侍従して秦に赴いた[3]紀元前651年、晋の献公が死去し、驪姫の生んだ公子奚斉は殺され、献公の後を嗣いだ卓子も殺害された[4]紀元前650年、公子夷吾は秦の援助で帰国し、晋侯として即位した。これが晋の恵公である[5]。穆姫は「公族は君の根本である」といって諸公子の帰国を進めるよう促した[6]が、恵公は聞き入れなかった。恵公は帰国のさいに秦と約束した領土割譲を履行しなかった。紀元前647年、晋で飢饉が起こると、恵公は秦に食糧支援を求め、秦の穆公はこれに応じて食糧を供与した[7]紀元前646年、秦で飢饉が起こると、穆公は晋に食糧支援を求めたが、晋の恵公は与えなかった[8]紀元前645年、かえって恵公は秦に出兵したことから、晋と秦の軍は韓原で戦い(韓原の戦い)、秦軍が勝利して、晋の恵公は捕らえられた。

秦の穆公は凱旋の途につき、恵公を連れて入朝させようとした。穆姫がこのことを聞くと、太子罃や公子弘に娘の簡璧を連れて高楼に昇り、薪を積み喪服の用意をして穆公を迎えた。穆姫は恵公を入朝させれば、焼身自殺する覚悟を示したので、穆公は妻を恐れて恵公を霊台に宿泊させた。秦の大夫は恵公を入朝させようと願い出たが、穆公は妻の死で喪服の帰国となってはつまらないと、恵公を晋に帰させることとした。晋の太子圉が秦の人質となり、穆姫を頼った[6]

穆姫の死後、穆姫の弟の公子重耳が秦の援助を得て晋に帰国し、晋侯として即位した。これが晋の文公である。秦の太子罃は重耳を秦に送るにあたって、母の恩を思い、「渭陽」の詩[9]を詠んだ[10]

脚注

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  1. ^ 春秋左氏伝』僖公4年
  2. ^ 『春秋左氏伝』僖公5年
  3. ^ 史記』晋世家
  4. ^ 『春秋左氏伝』僖公9年
  5. ^ 『春秋左氏伝』僖公10年
  6. ^ a b 『春秋左氏伝』僖公15年
  7. ^ 『春秋左氏伝』僖公13年
  8. ^ 『春秋左氏伝』僖公14年
  9. ^ 詩経』秦風「渭陽」
  10. ^ 列女伝』賢明伝「秦穆公姫」