稲垣仲静
稲垣 仲静(いながき ちゅうせい、本名:稲垣 廣太郎(いながき ひろたろう)[1]、1897年(明治30年) - 1922年(大正11年)6月24日)は、大正時代の日本画家。京都市出身、
日本画家で工芸図案家の稲垣竹埠の長男に生まれ[2][3]、克明な自然描写の中に官能性や凄みを表現する画家として、将来を期待されながらも早逝した[4]。
略歴
[編集]1912年(明治45年)に京都市立美術工芸学校(美工)に入学し、京都派の基礎とも言える写生技術を身につけた[7]。1917年(大正6年)京都市立絵画専門学校(絵専)に進学し[2][1]、翌1918年(大正7年)に美工出身者の研究団体「密栗会」に参加した[3]。これは1915年(大正4年)に入江波光、岡本神草、伊藤柏台らが結成した会で、のちには甲斐庄楠音や榊原始更も加わった[3]。
仲静の絵には同時代の白樺派の影響が見られ、単に目に見えるものを再現するのではなく、写実を通して自己の内面的深化を試みたとされる[7][8]。対象の生態に執拗に迫ろうとする緻密な表現は、次第に凄みと不気味さが加わるようになった[3]。在学中の1919年(大正8年)第2回国画創作協会展に《猫》を出品し初入選[1][2][3]。1921年(大正10年)の《太夫》では、おはぐろを見せてにたりと笑う薄気味悪い表情を、毒々しい表現で描いた[3]。
1920年(大正9年)絵専卒業。この頃から、西洋絵画的リアリズムから離れ、中国南宋時代の院体花鳥画風の作品を描き始める傾向を見せる[3]。
1922年(大正11年)、京都の画商・福村祥雲堂が主宰した「九名会」のメンバーに選ばれる。この会は、菊池契月、西山翠嶂、西村五雲という当時の京都画壇の重鎮が、次代の京都画壇を担う新進作家9名を推挙するもので、伊藤草白、堂本印象、登内微笑、岡本神草、中村大三郎、宇田荻邨、山口華楊、福田平八郎らとともに仲静が選ばれた[9]。しかし、同会第1、2回展に出品した直後[1][2]、流行病の腸チフスに罹患し25歳で死去した[10]。
早逝のため現存する本画は極めて少ないものの、徹底した写実性と、朽ち果て滅びゆくものに注がれる厳しく温かい視線に裏打ちされた、仲静作品の強烈な印象は、大正期の京都画壇に衝撃を与えたと再評価されている[10]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 京都市美術館『第2部 明治から昭和へ 京都画壇の隆盛:京都市京セラ美術館開館記念展「京都の美術250年の夢」』光村推古書院、2020年、194頁。
- ^ a b c d e “稲垣仲静・稔次郎兄弟展|京都国立近代美術館”. www.momak.go.jp. 2021年3月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 上薗四郎「仲静芸術の魅力」『稲垣仲静・稔次郎兄弟展』京都国立近代美術館ほか、2010年、10-13頁。
- ^ 『稲垣仲静・稔次郎兄弟展』京都国立近代美術館ほか、2010年、4頁。
- ^ 『稲垣仲静・稔次郎兄弟展』京都国立近代美術館ほか、2010年、53頁。
- ^ 『稲垣仲静・稔次郎兄弟展』京都国立近代美術館ほか、2010年、61頁。
- ^ a b 野地耕一郎「シャモとイバラ―仲静作品の引用と変容をめぐって」『稲垣仲静・稔次郎兄弟展』京都国立近代美術館ほか、2010年、218-221頁。
- ^ “岸田劉生/Tの肖像 所蔵作品|北九州市立美術館”. www.kmma.jp. 2021年3月18日閲覧。
- ^ 『異色の美人画家・甲斐庄楠音と三人の夭折画家』星野画廊、2019年、19頁。
- ^ a b 『異色の美人画家・甲斐庄楠音と三人の夭折画家』星野画廊、2019年、13頁。
参考文献
[編集]- 『稲垣仲静・稔次郎兄弟展:夭折の日本画家、型絵染の人間国宝』京都国立近代美術館、笠岡市立竹喬美術館、練馬区立美術館、2010年。
- 『異色の美人画家・甲斐庄楠音と三人の夭折画家:稲垣仲静25歳・伊藤柏台36歳・岡本神草38歳』星野画廊、2019年。