神奈川県立秦野高等学校
神奈川県立秦野高等学校 | |
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北緯35度21分45.1秒 東経139度15分27秒 / 北緯35.362528度 東経139.25750度座標: 北緯35度21分45.1秒 東経139度15分27秒 / 北緯35.362528度 東経139.25750度 | |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 神奈川 |
校訓 | 文武両道、質実剛健[1] |
設立年月日 | 1886年(明治19年)5月 |
創立記念日 | 10月29日 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
学期 | 3学期制 |
学校コード | D114221110013 |
高校コード | 14175F |
所在地 | 〒257-0004 |
神奈川県秦野市下大槻113 | |
外部リンク | 公式サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
神奈川県立秦野高等学校(かながわけんりつはだのこうとうがっこう)は、旧制神奈川県立秦野中学校を前身とする神奈川県秦野市下大槻に所在する公立の高等学校。過去には県の学力向上進学重点校の一つに選ばれており、現在はICT利活用授業研究推進校の指定を受けている[2]。
設置学科
[編集]歴史
[編集]同校が公式に草創年とするのは同校の前身である三郡共立学校創立年である1886年(明治19年)であり、これをもって同校は現存する県立高等学校としては、最古の歴史を持つとされる[注釈 1]。だが源流をたどれば同校の歴史は以下のようにより古くまでさかのぼることができる。
1872年(明治5年)4月の元小田原藩藩校、県学校文武館の閉鎖を契機とする同年4月の共同学校の創立、1874年(明治7年)11月の同校の廃止とそれに伴う小田原師範学校への改称、1876年(明治9年)6月30日の同校内の中等科設置、1879年(明治12年)5月24日の横浜師範学校への統合による小田原師範学校の廃止、1879年(明治12年)10月の足柄上郡、足柄下郡、大住郡、淘綾郡、津久井郡、愛甲郡による六郡共立小田原中学校の創立と旧師範学校施設の引き継ぎ、1880年(明治13年)2月の津久井郡脱退による五郡共立小田原中学校への改称、同校の大住郡への移転問題に起因する1884年(明治17年)7月の同校の廃校、以上の経緯により1886年(明治19年)5月、大住郡、淘綾郡、足柄上郡が同校を大住郡金目村へ誘致することによって三郡共立学校が創立された。
そしてその後の経緯は以下である。1896年(明治29年)4月の大住郡、淘綾郡合併(中郡となる)による二郡共立学校への改称、1898年(明治31年)4月、足柄上郡脱退による中郡共立学校への改称[注釈 2]、1900年(明治33年)3月の郡制改正施行による中郡立中郡学校への改称、国の実業教育政策に応じる形での1902年(明治35年)4月の中郡立中郡農業学校の開校、1908年(明治41年)4月、同校の平塚町達上西畑向原移転による神奈川県立農業学校(神奈川県立平塚農業高等学校の前身)の開校、なおも存続中の郡立農業学校を中郡有志が引き継ぐための、1909年(明治42年)3月の私立育英学校の創立、1923年(大正12年)4月の郡制廃止と同年9月の関東大震災による校舎全壊に起因する経営困難に対処するための1924年(大正13年)4月の大根村、土沢村、金目村、旭村、金田村、秦野町の六か町村による中郡六カ町村組合立育英学校の創立、同年12月の組合への参加町村増加による中郡二十六カ町村組合立育英学校への改称、1926年(大正15年)3月4日、「奈珂中学校設立認可」が下ったことによる、同年4月の中郡二十六カ町村組合立奈珂中学校の創立、1929年(昭和4年)の神奈川県奈珂中学校への改称、以上の経緯を経て同校は1935年(昭和10年)11月1日に県へ移管され、神奈川県立秦野中学校が創立された。
その後は以下の経緯をたどった。1948年(昭和23年)、戦後の学制改革に伴い、新制高等学校となり、神奈川県立秦野高等学校となった。以後、学区制施行下の旧秦野伊勢原学区トップ校であったが、2005年に学区制が廃止された。2010年時点では、県内18校が指定を受ける学力向上進学重点校の一つに選ばれていた[注釈 3]。
略歴
[編集]- 1872年(明治5年)4月 - 県学校文武館閉鎖。共同学校開校。
- 1874年(明治7年)11月 - 共同学校廃止。小田原師範学校と改称。
- 1876年(明治9年)6月 - 同師範学校内に中等科設置。
- 1879年(明治12年)
- 5月 - 同師範学校廃止。横浜師範学校に統合。
- 10月 - 足柄上下大住淘綾津久井愛甲6郡連合の中学校設置が許可される。
- 11月 - 小田原師範学校の施設を引き継ぎ、六郡共立小田原中学校開校。
- 1880年(明治13年)2月 - 津久井郡が脱退。五郡共立小田原中学校と改称。
- 1884年(明治17年)7月 - 五郡共立小田原中学校廃校。
- 1885年(明治18年) - 同校を大住郡に誘致するための大住淘綾足柄上3郡の三郡共立学校設立の出願が許可される。
- 1886年(明治19年)5月 - 旧五郡共立中学校が大住郡に誘致され、三郡共立学校開校(同校草創年)。
- 1893年(明治26年)5月 - 金目小学校新築移転により同校舎買収。三郡共立学校移転。
- 1896年(明治29年)4月 - 大住郡、淘綾郡合併により中郡、足柄上郡共立の二郡共立学校と改称。
- 1898年(明治31年)4月 - 足柄上郡が脱退。中郡共立学校と改称。
- 1899年(明治32年)7月 - 新校舎を南金目村に新築。同校移転。
- 1900年(明治33年)3月 - 郡制改正施行により、中郡立中郡学校と改称。
- 1902年(明治35年)4月 - 国の実業教育政策に応じる形で中郡立農業学校開校。農業科設置。
- 1903年(明治36年) - 県農業会、県立農業学校設立を建議。
- 1908年(明治41年)4月 - 神奈川県への移管により神奈川県立農業学校創立(現平塚農業高校)。平塚町達上ヶ丘に移転。
- 1909年(明治42年)
- 3月 - 郡立農業学校廃校。
- 4月 - 廃校となった郡立農業学校舎を利用し、新たに私立育英学校創立。
- 1923年(大正12年)
- 4月 - 郡制廃止。郡による補助金、打ち切られる。
- 9月 - 関東大震災発生。校舎全壊。
- 10月 - 大磯妙大寺にて授業再開。
- 1924年(大正13年)
- 1月 - 校舎改築。同校にて授業再開。
- 3月 - 私立育英学校廃校。
- 4月 - 秦野町、金目村他6町村による中郡六カ町村組合立育英学校創立。
- 12月 - 組合への参加町村増加により中郡二十六カ町村組合立育英学校となる。
- 1925年(大正14年)5月 - 組合認可、事務開始。
- 1926年(大正15年)
- 4月 - 育英学校の発展的解消により中郡二十六カ町村組合立奈珂中学校創立(同校創立年)。大根村に移転。
- 9月 - 新校舎、同村下大槻広畑(同校所在地)に落成。同校移転。
- 10月29日 - 開校式。
- 1929年(昭和4年)3月 - 神奈川県奈珂中学校と改称。
- 1935年(昭和10年)11月1日 - 県へ移管、神奈川県立秦野中学校創立。
- 1947年(昭和22年)4月 - 学制改革に伴い、新一年生募集停止。同時に併設中学校設置。
- 1948年(昭和23年)4月 - 学制改革に伴い、同校名に改称。
- 1949年(昭和24年)3月 - 併設中学校、自然廃校。
- 1950年(昭和25年)4月 - 男女共学となり、男子216名、女子3名入学。学区制により秦野伊勢原学区に属す。
- 1963年(昭和38年)4月 - 学区改編され、平塚秦野学区に属す。男子高に戻る[注釈 4]。
- 1974年(昭和49年)4月 - 男女共学再開[注釈 5]。
- 1981年(昭和56年)4月 - 再学区改編。秦野伊勢原学区に属す。
- 2005年(平成17年)4月 - 学区制廃止。
- 2007年(平成19年)4月 - 県教育委員会より発展的な学力向上重点推進校に指定される。
- 2008年(平成20年)1月 - 東海大学と教育交流協定を締結。
- 2010年(平成22年)4月 - 神奈川県教育委員会より学力向上進学重点校に指定される。[3]。
- 2016年(平成28年)4月 - 神奈川県の「ICT利活用授業研究推進校」に指定される。
- 2018年(平成30年)12月 - 生徒が校内で利用できるWiFiが解禁。
- 2020年(令和2年)8月 - 耐震工事のためプレハブ校舎の使用を開始。
教育
[編集]入学時に芸術科目(音楽、美術)の選択があり、選択科目ごとに1年次のクラス編成がなされる。 また、1年次に理科科目(生物、物理)の選択があり、選択科目ごとに2年次のクラス編成がなされる。
行事
[編集]校内行事は多々あるが、特に以下をあげることができる。
- 2024年より毎年体育祭と文化祭の両方が開催される。[注釈 6]
- 校内10 kmマラソンが2月に行われる。ただし、女子は5 kmマラソンである。このマラソンは現代において男女不平等であるという意見も生徒から出ており、近年の倍率低迷の原因ともいわれている。[注釈 7]
- 4月に遠足が行われる[注釈 8]。
- 修学旅行がある。実施時期、行き先は時代と共に変化した。2019年時点では2年生11月、沖縄3泊4日。だが、2020年度はコロナウイルスの影響で、行き先変更の上、2年生次の3月に予定されていた。だが、新型コロナウィルスが終息しないことから中止が決定された[注釈 9]。
- 陸上競技大会が5月の中旬に行われる。10kmマラソンと同じく毎年秦野市陸上競技場が会場になる。
- 3月の学年末試験後にスポーツ大会が行われ、種目はサッカー、バレーボール、バスケットボール、ドッジボール、大縄跳びがある。2020年度は大縄跳びの開催はなかった。
部活動
[編集]同校は文武両道を掲げ、文化運動共に部活動が非常に盛んであり、以下の成果が顕著である[注釈 10]。
年度 | 種目 | 成果 |
---|---|---|
1953年(昭和28年) | 陸上100m | 国体出場 |
1954年(昭和29年) | 陸上100m | 国体出場 |
1967年(昭和42年) | 陸上部800m | インターハイ3位 |
1968年(昭和43年) | 山岳部 | インターハイ出場 |
1969年(昭和44年) | 陸上部1600mリレー | インターハイ準決勝進出 |
1970年(昭和45年) | 陸上部5種目競技 | インターハイ7位 |
野球部 | 春季大会準優勝 | |
1971年(昭和46年) | 陸上部5種目競技 | インターハイ3位 |
1972年(昭和47年) | 野球部 | 全国高等学校野球選手権県大会準優勝[注釈 11]。 |
陸上部800m,1500m | インターハイ2種目優勝。800m日本高校新記録[注釈 12] | |
陸上部1500m | 日体大記録会(日体大長距離記録会)で高校新記録[注釈 13] | |
卓球部 | アジア卓球選手権ジュニア日本代表参加 | |
新聞委員会 | 全国コンテスト佳作 | |
1973年(昭和48年) | テニス部ダブルス | インターハイ出場 |
1974年(昭和49年) | テニス部ダブルス | インターハイ出場 |
1978年(昭和53年) | 陸上部400mハードル | ジュニアオリンピック2位 |
テニス部ダブルス | インターハイ出場 | |
1982年(昭和57年) | テニス部女子ダブルス | インターハイ出場 |
1983年(昭和58年) | テニス部男子ダブルス、テニス部女子ダブルス | インターハイ出場 |
1985年(昭和60年) | 吹奏楽部アンサンブル | 全日本アンサンブル・コンテスト銀賞 |
1986年(昭和61年) | 演劇部 | 北相地区演劇発表会最優秀賞・県大会進出 |
1991年(平成3年) | 演劇部 | 北相地区演劇発表会最優秀賞・県大会進出 |
1997年(平成9年) | 弓道部個人女子 | インターハイ出場[4] |
2005年(平成17年) | バスケットボール部男子 | インターハイ出場 |
2006年(平成18年) | バスケットボール部男子 | インターハイ出場 |
陸上部短距離長距離女子 | 全国高校駅伝出場 | |
サッカー部 | 全国選手権予選決勝進出 | |
演劇部 | 北相地区演劇発表会最優秀賞・県大会進出 | |
2007年(平成19年) | 運動部活動 | かながわ部活ドリーム大賞[注釈 14]グランプリ |
水泳部フィンスイミング | アジア選手権大会優勝[5] | |
サッカー部 | 全国選手権県予選準決勝進出 | |
陸上部女子3000m | インターハイ出場 | |
弓道部男子、女子 | インターハイ出場 | |
2008年(平成20年) | 陸上部女子1500m,3000m | インターハイ出場 |
ソフトテニス女子ダブルス | インターハイ出場 | |
2009年(平成21年) | 弓道部個人男子 | インターハイ出場[6] |
硬式テニス部男子 | インターハイ・ベスト32 | |
水泳部男子 | インターハイ出場 | |
ソフトテニス部男子 | インターハイ出場 | |
陸上部女子1500m,3000m | インターハイ出場 | |
陸上部女子全国駅伝 | 10位 |
進学・合格状況
[編集]同校による令和元年(2019年)度の発表によると(同校公式サイト・後掲・外部リンク)、進学先は四年制大学が82%以上を占める。進学傾向としては伝統的に私立大学への進学傾向がみられる。2019年度卒業の生徒の進路は、国公立大学が8名、私立大学が283名、短期大学が5名、専修学校が20名、留学が3名、進学等準備が34名となっている。[7]。
同窓会
[編集]- 神奈川県立秦野高等学校同窓会「広陵会」 - 会報「広陵」発行のほか、青春かながわ校歌祭の参加、在校生の活動支援などを行っている。
著名な出身者
[編集]三郡共立学校から中郡立中郡農業学校までの出身者
神奈川県立秦野中学校以後の出身者
- 柳川覚治(文部官僚、元参議院議員)
- 小泉晨一(政治家。元衆議院議員)
- 古谷義幸(政治家。秦野市長、元同市議、同議長、元神奈川県議)
- 中村省司(政治家。神奈川県議、元同議長、元鎌倉市議)
- 山中恒(作家)
- 小幡佳代子(アスリート。マラソン選手)
- 猪狩佑貴(プロサッカー選手、湘南ベルマーレ所属)
- 小澤巧(サッカー選手、Stallion Laguna F.C.所属)
- ジャイアント白田(フードファイター)
- 石井亮輔(作詞家、作曲家、音楽プロデューサー)
- 関野義秀(アスリート。フィンスイミング日本代表選手、4×200mサーフィスリレー日本記録保持者。)
- 齊藤洋介(プロバスケットボール選手)
- 上野真吾(競輪選手)
交通
[編集]出典 : [8]
乗車駅 | 系統 | 下車停留所 | 運行事業者 |
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JR東海道線平塚駅 | 平74 | 「秦野高校前」 | ■神奈中西 |
小田急線秦野駅 | 秦44・秦45 | ||
小田急線東海大学前駅 | 学04 | 「宿矢名」、徒歩4分 | |
小田急線鶴巻温泉駅 | 巻02 |
- 徒歩
- 小田急線東海大学前駅より徒歩25分。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 神奈川県立秦野高等学校『秦野高等学校史』(ぎょうせい、1986年)218頁は「秦野高校は百年を迎える。神奈川の県立高校で最も古い学校である。」とする。
- ^ 秦野高等学校公式サイト・概要・1.沿革によると、中郡共立学校への改称は1896年(明治29年)であるが、秦野高等学校史・前掲・巻末年表にしたがった。
- ^ 以上は、秦野高等学校史・前掲、小田原高校公式サイト・学校沿革、平塚農業高校公式サイトによった。
- ^ 書類上はずっと男女共学であったという見解もあるが、秦野高等学校史・前掲・183頁には「三十八年度から、秦野高校は再び男子校に戻る」とあるため、校史にしたがった。
- ^ 書類上はずっと男女共学であったとする見解もあるが、秦野高等学校史・前掲・183頁には「再び男女共学になるのは四十九年になってからである。」とあるため、校史にしたがった。
- ^ 秦野高等学校史・前掲・194頁によると、昭和30年代は体育祭が毎年行われ、文化祭は 1956年(昭和31年)の創立三十年記念の一環として行われたのが最初であるが、1959年(昭和34年)から文化祭が毎年行われている。
- ^ 秦野高等学校史・前掲・176頁によると、持久走は軍事教練の一環として戦前から行われてきた。だがスポーツとしてのこの行事は旧制中学校時代の1947年(昭和22年)10月から始まった。当初の目的は次年度の鎌倉駅伝の選手選考を兼ねるものであった。また1948年(昭和23年)には年2度実施された。現在では男子5 km、女子10 kmで行われる
- ^ 遠足は旧制中学校時代から行われている。行き先は県内の他東京等がみられたが、1941年(昭和16年)に自粛された。秦野中学校より前については中郡二十六カ町村組合立奈珂中学校、私立育英学校参照。
- ^ 秦野高等学校史・前掲・145頁以下によると、旧制中学校時代から行われている。当時は回数も多く、1936年度、1937年度では3年生から5年生で実施されている。行き先は箱根伊豆韮山、日光、東京、関西、それと横須賀(演習参加、連隊見学を兼ねる)であった。しかし1941年(昭和16年)に旅行等は自粛された。秦野高等学校史・前掲・176頁以下によると、戦後は実施時期が2年生春の時もあったが、昭和30年代前半は3年生春であった。しかし30年代後半には進路決定に重要な時期を避けるために2年生秋に行われることになり、以後定着している。行き先には以下がみられた。当初は東北、四国が主であったが、後に九州や北海道が中心となった。また同・212頁によると、共学が再開された1974年(昭和49年)度入学生だけは1年(伊勢志摩)と2年時に修学旅行が行われた(秦野中学校よりも前については中郡二十六カ町村組合立奈珂中学校、中郡六カ町村組合立育英学校、私立育英学校参照)。
- ^ 以下は、他の編集者が記述したものと特に出典を挙げた成果以外は、秦野高等学校史・前掲・178、198-208、218頁および公式サイトによった。
- ^ 当時の活躍は秦野旋風と呼ばれ、地元を沸かせた(YOMIURI ONLINE「猛練習で公立旋風」)。
- ^ 秦野高等学校史・前掲・203頁によると、この時の800 m3位は瀬古利彦であった。またこの時の選手、石井隆士は卒業後、1977年(昭和52年)のヨーロッパ遠征で日本記録を樹立し、この記録は2004年(平成16年)7月31日に小林史和が破るまで続いた(陸上ニュース)
- ^ 参加選手は石井隆士(秦野高等学校史・前掲・203頁)。
- ^ 県内高等学校の運動部活動で優れた取組みを表彰する。
- ^ 秦野高等学校史・前掲・48頁では「衆議院議員に当選した福井準三」と表記されているが、衆議院、参議院編『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』(大蔵省印刷局、1990年)では「福井準造」と記載されている。そして他に該当する議員の記録がないため、氏名の表記は後者にしたがった。