伊勢宗子
伊勢宗子(いせ むねこ)は、9世紀か10世紀の平安時代初期に、奈良に住んでいた人物である。秦奈良子(またの名を粟日)、伴廣冨(廣冨は現代の用字で広富)とともに、壺の中に入れられた多数の人形(ひとがた)によって知られており、本項目では3人をまとめて説明する。壺の外の人形に名を書かれた伊勢竹河は項目を分ける。
解説
[編集]1999年、現在の奈良県奈良市法華寺町、かつての平城京左京一条三坊十三坪の東端で、井戸跡の中に、多数の木の板を入れた壺が出土した[1]。研究上は広義の木簡だが、人形である。細長い木の板に、両側から少し切り込んで首と腰を表現し、下から深く切り込んで足を表現した[1]。顔の部分に、髪、眉、目、鼻、口を描き、胴体部分に名が書いてあった。3人とも、頭の両側角を斜めに切り落としてあり、髪を下ろした女の姿を表現したものと思われる[2]。
胴体には一枚ごとに一人の名が書かれていた[2]。「伊勢宗子」、「秦奈良子」、「伴廣冨」である。一枚だけ表裏が「伊勢宗子」と「秦奈良子」と別の名が書かれたものがあった。同一人名が同じ筆跡で書かれていた[2]。
伊勢宗子の人形は6点[2][3]。寸法は縦が長いもので11.1センチメートル、短いもので1.5センチメートル、幅が2.0センチメートルから1.8センチメートルあった[4]。
秦奈良子の人形は18点あった[5][6]。そのすべてに、行をあらためて「又名粟日」と書いてあった[7][6]。粟日ともいうのであろう。うち1枚は使用済み木簡を転用したもので[8]、2枚は檜(ヒノキ)の皮に書かれていた[9]。縦が12.3センチメートルから9.8センチメートルだが、破損によりもっと短くなったものもある[7]。幅は2.3センチメートルから1.1センチメートル[7]。
伴廣冨の人形は、13点[10][11]。縦が11.6センチメートルから9.1センチメートル、幅は2.5センチメートルから1.3センチメートル[10]。木簡を転用したものが1点あった[12]。
それと、表と裏で人名が異なる前述の1枚[13]、判読不能な檜皮の2枚があった[14]。
壺の外にも束ねられた人形があり、そちらは髭を生やした男の顔で、「伊勢竹河」と書かれていた[1][15]。
井戸は9世紀に作られ、10世紀にかけて埋まっていったと推定される[16]。
この種の人形は、病気の治癒か祓で使ったと考えられている[1]。まとめて棄てられた事情は不明である。
脚注
[編集]- ^ a b c d 松浦 & 原田 2000, p. 19
- ^ a b c d 松浦 & 原田 2000, p. 22.
- ^ 奈良文化財研究所「木簡庫」で「伊勢宗子」を検索。7件と出て、報告書の6点とずれるが、これは報告書に図示された1点を表に載せられたものと別に数えたもの。「秦奈良子」「伴廣富」も同じである。
- ^ 松浦 & 原田 2000, p. 20.
- ^ 松浦 & 原田 2000, p. 20-21, 22頁本文には「17点以上」とある。No.63が表の末尾近くに1つだけ離れて載っている。
- ^ a b 奈良文化財研究所「木簡庫」で「秦奈良子」を検索。
- ^ a b c 松浦 & 原田 2000, p. 20-21
- ^ 報告書のNo.48。この番号は木簡庫でも同じである。
- ^ 報告書のNo.42とNo.63。
- ^ a b 松浦 & 原田 2000, p. 21
- ^ 奈良文化財研究所「木簡庫」で「伴廣富」を検索。発掘報告では「冨」だが、木簡庫では「富」の字を使う。
- ^ 報告書のNo.56。
- ^ 報告書のNo.32。
- ^ 報告書のNo.64と65。
- ^ 奈良文化財研究所「木簡庫」で「伊勢竹河」を検索。
- ^ 松浦 & 原田 2000, p. 16.
参考文献
[編集]- 松浦五輪美, 原田香織「016 一九九九年出土の木簡 奈良・平城京跡左京一条三坊十三坪」『木簡研究』第22巻、木簡学会、2000年11月、16-22頁、CRID 1390853650397341056、doi:10.24484/sitereports.90183-14257。
- 松浦五輪美「174 釈文の訂正と追加(四) 奈良・平城京跡左京一条三坊十三坪(第二二号)」『木簡研究』第23巻、木簡学会、2001年11月、174-174頁、doi:10.24484/sitereports.90185-14335。
- 『木簡研究』第22号、「1999年出土の木簡」。
- 奈良文化財研究所「木簡庫」。2023年3月閲覧。