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秋山徳三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
秋山 徳三郎
生誕 1891年2月22日
日本の旗 日本 兵庫県 青垣町
死没 (1968-02-26) 1968年2月26日(77歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1912 - 1945
最終階級 陸軍中将
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秋山 徳三郎(あきやま とくさぶろう、1891年明治24年)2月22日[1][2] - 1968年昭和43年)2月26日[1][2])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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兵庫県青垣町(現:丹波市)おいて[要出典]、秋山宝右衛門の二男として生まれる[1]柏原中学校卒を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業[1][3]。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第10大隊付となる[1]1915年(大正4年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業[1]。さらに陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学土木科で学び1919年(大正8年)7月に卒業した[1][3]。その際、南清博士奨励記念賞を受賞している[4]

1920年(大正9年)4月、陸軍築城本部員となり、英仏駐在を経て、1924年(大正13年)10月、イギリス工兵校を卒業[1]1926年(大正15年)8月、陸軍省軍務局課員に発令され、陸軍技術本部イギリス駐在官、関東軍特務部員(満州国国道局顧問)、陸軍航空本部員を経て、1935年(昭和10年)8月、工兵大佐に昇進し兵器局器材課長に就任[1][3]

1936年(昭和11年)8月、兵器局機械課長となり、電信第1連隊長を経て、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級し工兵監部付となる[1][2][3]。同年12月、航空本部第2部長兼大本営野戦航空兵器長官に就任し、1941年(昭和16年)8月、陸軍中将に進み太平洋戦争を迎えた[1][2][3]

1942年(昭和17年)2月、工兵監部付となり、同年8月、陸軍築城部本部長に就任[1][2][3]。兼飛行場設定練習部長を経て、1943年(昭和18年)12月、中国軍需監理部長となり、1944年(昭和19年)11月、陸軍燃料本部長に就任し終戦を迎えた[1][2][3]1945年(昭和20年)11月に復員[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

栄典

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伝記

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  • 石井正紀『技術中将の日米戦争 - 陸軍の俊才テクノクラート秋山徳三郎』光人社〈光人社NF文庫〉、2006年。
  • 秋山徳三郎追想録編集委員会編『秋山徳三郎君の思い出』新光道路、1968年。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本陸海軍総合事典』第2版、7頁。
  2. ^ a b c d e f 『日本陸軍将官辞典』20-21頁。
  3. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』310-311頁。
  4. ^ 『技術中将の日米戦争』、84-85頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」1頁。
  6. ^ 『官報』第167号「叙任及辞令」1913年2月21日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。