秋山元蔵
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秋山元蔵 あきやま もとぞう | |
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生年月日 | 1854年8月8日 |
出生地 |
日本 甲斐国巨摩郡青柳村 (現山梨県南巨摩郡富士川町) |
没年月日 | 1920年4月24日(65歳没) |
所属政党 | 憲政本党 |
選挙区 | 山梨県第3選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1898年8月 - 1902年8月9日 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1889年 - 1897年 |
南巨摩郡会議員 | |
在任期間 | 1889年 - 1891年 |
秋山 元蔵(元藏、あきやま もとぞう、1854年8月8日(嘉永7年7月15日[1][2][注釈 1])- 1920年(大正9年)4月24日[1][3][4])は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、山梨県南巨摩郡増穂村長(初代)。
経歴
[編集]甲斐国巨摩郡青柳村[1](山梨県[3]南巨摩郡増穂村[1][2][4][5]、増穂町[1]を経て現富士川町青柳町)で、豪農・秋元源兵衛の四男として生まれる[1]。村塾で漢学を修め[2][3]、普通学を独習した[2]。1873年(明治6年)分家したが、長兄・長十郎(源兵衛)が富士川遭難で死去したため、その子(甥)勝蔵(秋山源兵衛)の後見として入夫した[1]。
1876年(明治9年)増穂村副戸長に就任[2]。以後、増穂村会議員、同村学務委員を務める[1][2][3][4]。1889年(明治22年)町村制施行に伴い初代・増穂村長に就任し1891年(明治24年)まで在任[1][2][3][4]。1890年(明治23年)南巨摩郡会議員に就任し、同参事会員も務めた[2][3]。1889年[注釈 2]山梨県会議員に選出され、1893年(明治26年)に再選され1897年(明治30年)まで2期在任した[1][2][3][4]。1898年(明治31年)8月の第6回衆議院議員総選挙で山梨県第3区から憲政本党所属で出馬して当選し[1][2][5][6]、衆議院議員に1期在任した[3][4]。
実業界では、合資会社青山運輸役員、山梨農工銀行取締役、秋山銀行顧問、共同製糸白嶺社社長などを務めた[1][2][3][4][5]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 山崎謙編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 川手秀一編『甲州古今人物辞書』山梨協会本部、1938年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 山梨日日新聞社編『山梨百科事典 創刊120周年記念版』山梨日日新聞社、1992年。