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福田久松

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

福田 久松(ふくだ ひさまつ、1849年1月19日(嘉永元年12月25日[1])- 1922年大正11年)12月1日[1][2])は、日本の教育者政治家衆議院議員。旧姓・仲、幼名・伊喜太[3]。号・東洋外史、耕田散人、平民居士、自由主人[3]

経歴

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武蔵国入間郡豊田新田[1](のち埼玉県入間郡大田村[3]、現:川越市)で、農業・仲勇の長男として生まれ、母の実家である名主・福田仙太郎の孫養子となる[1][3]。長沢徳元、利根川尚方、中島芳嶺らに和漢洋学を学び、大川周造から武技を学んだ[3]1878年埼玉県師範学校小学師範科を卒業した[1][2][3]

郷里の豊田小学校[注 1]の教員となり、同校長、入間高麗中学連合会議員[注 2]、同議長も務め、1880年教師を辞任後は、埼玉県第三区学務委員、同県教育会委員を歴任した[1][2][3]

自由民権運動に加わり、教師辞任後、比企横見高麗、入間4郡の豪農に呼びかけ、四郡同胞有志会を結成し国会開設請願書を元老院に提出した[1]。1880年12月、埼玉県会議員に選出され連続6期務め、この間、立憲改進党に入党し、同常置委員、地方衛生会委員、県会副議長を務めた[1][2][3]

1892年2月、第2回衆議院議員総選挙で埼玉県第二区から出馬し、当局から選挙干渉を受けながらも当選[1][2][3]。以後、第3回第4回第6回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算四期務めた[1][2]。この間、立憲改進党評議員などを務め、進歩党憲政党憲政本党に所属した[2][3]

その他、埼玉県茶業組合連合会議所議員、同議長[注 3]、茶業組合中央会議所議員を務め、埼玉県の茶業振興に尽力した[1][2][3]

著作

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  • 『東洋之新天地 : 一名・選挙ノ鏡』福田久松、1890年。
  • 『経済要論』福田久松、1890年。
  • 『大日本文明略史』福田久松、1891年。
  • 『東洋之立憲政治 : 附・三大論策』福田久松、1891年。
  • 述『立憲政治国ノ人民』福田久松、1892年。

親族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』549頁、『衆議院議員列伝』405頁では「豊田学校」。
  2. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』549頁、『衆議院議員列伝』405頁では「入間郡中学連合会議員」。
  3. ^ 『埼玉人物事典』685頁では「会頭」。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 『埼玉人物事典』684-685頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』549頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k 『衆議院議員列伝』405-406頁。
  4. ^ 岸上克己 『埼玉壱百人』 埼玉通信社、1917年、112頁。

参考文献

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  • 埼玉県教育委員会編『埼玉人物事典』埼玉県、1998年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 山崎謙編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年。