福田久松
福田 久松(ふくだ ひさまつ、1849年1月19日(嘉永元年12月25日[1])- 1922年(大正11年)12月1日[1][2])は、日本の教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・仲、幼名・伊喜太[3]。号・東洋外史、耕田散人、平民居士、自由主人[3]。
経歴
[編集]武蔵国入間郡豊田新田[1](のち埼玉県入間郡大田村[3]、現:川越市)で、農業・仲勇の長男として生まれ、母の実家である名主・福田仙太郎の孫養子となる[1][3]。長沢徳元、利根川尚方、中島芳嶺らに和漢洋学を学び、大川周造から武技を学んだ[3]。1878年、埼玉県師範学校小学師範科を卒業した[1][2][3]。
郷里の豊田小学校[注 1]の教員となり、同校長、入間高麗中学連合会議員[注 2]、同議長も務め、1880年教師を辞任後は、埼玉県第三区学務委員、同県教育会委員を歴任した[1][2][3]。
自由民権運動に加わり、教師辞任後、比企、横見、高麗、入間4郡の豪農に呼びかけ、四郡同胞有志会を結成し国会開設請願書を元老院に提出した[1]。1880年12月、埼玉県会議員に選出され連続6期務め、この間、立憲改進党に入党し、同常置委員、地方衛生会委員、県会副議長を務めた[1][2][3]。
1892年2月、第2回衆議院議員総選挙で埼玉県第二区から出馬し、当局から選挙干渉を受けながらも当選[1][2][3]。以後、第3回、第4回、第6回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算四期務めた[1][2]。この間、立憲改進党評議員などを務め、進歩党、憲政党、憲政本党に所属した[2][3]。
その他、埼玉県茶業組合連合会議所議員、同議長[注 3]、茶業組合中央会議所議員を務め、埼玉県の茶業振興に尽力した[1][2][3]。
著作
[編集]- 『東洋之新天地 : 一名・選挙ノ鏡』福田久松、1890年。
- 『経済要論』福田久松、1890年。
- 『大日本文明略史』福田久松、1891年。
- 『東洋之立憲政治 : 附・三大論策』福田久松、1891年。
- 述『立憲政治国ノ人民』福田久松、1892年。
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 埼玉県教育委員会編『埼玉人物事典』埼玉県、1998年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 山崎謙編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年。