福田たね
福田 たね(ふくだ たね、1885年(明治18年)1月25日 - 1968年(昭和43年)5月17日)は、日本の洋画家[1][2]。洋画家・青木繁の妻[2]。音楽家・福田蘭童の母。元ハナ肇とクレージーキャッツ・石橋エータローの祖母。
経歴・人物
[編集]1885年(明治18年)1月25日、栃木県芳賀郡水橋村(現:芳賀町)で呉服屋の次女として生まれる[2][3]。1897年(明治30年)頃から絵を習い始め、1899年(明治32年)18歳の時、画家修業のため上京し五百城文哉に入門[1]。1903年(明治36年)東京の洋画塾不同舎に入る[2]。
1904年(明治37年)、青木繁らの館山の写生旅行に同行、懐妊[3]、1905年(明治38年)茨城県真壁郡伊讃村川島(現在の筑西市)で一児・幸彦(作曲家・福田蘭童)をもうけた[1][2]。戸籍上は、たねの父・福田豊吉の子として届けられた[3]。翌年1906年(明治39年)幸彦とともに郷里の栃木県水橋村に帰郷[2]。同年末、たねの実家に青木が身をよせ「わだつみのいろこの宮」を制作した[2]。1907年(明治40年)、青木と離別[3]。
その後、1910年(明治43年)地元の野尻長十郎と結婚[1][2]、7人の子をもうける[4]。夫の死後、制作活動を再開し、1956年(昭和31年)示現会展に70歳で初入選[2]。1962年(昭和37年)、館山市布良に青木繁《海の幸》記念碑建立の際、蘭童とともに除幕式に参列[3]。1968年(昭和43年)5月17日没、83歳[1]。
青木作品のモデルで“青木ロマン”のヒロインでもある[2]。
記念碑
[編集]福田たねの実家があった芳賀町東高橋地内(国道123号 五行橋付近)に青木繁とたね、二人の息子の幸彦(福田蘭童)が刻まれた「ロマンの碑」がある[5]。1974年に栃木県立美術館が開催した「青木繁・福田たねのロマン展」を契機に、約1000万円の募金が集められ、益子町在住の彫刻家和久奈南都留(ワグナー・ナンドール)の設計と制作により1976年に完成した[5]。しかし「ロマンの碑」については2023年7月11日に盗難が確認された[6]。
なお、青木は、1906年たね宅逗留中に「わだつみのいろこの宮」(石橋美術館所蔵、重要文化財)を制作している[5]。
関連項目
[編集]- 久保貞次郎 - 婿入り先の久保家が福田家の隣村の資産家で、岳父の久保善郎は1922年に福田家から青木繁の絵画を得て「日本武尊」など2点を所蔵していた[7]。善郎はたねの大作「行春」も一時保管していた[7]。