福永十三郎
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福永 十三郎(ふくなが じゅうざぶろう、享保6年3月14日(1721年4月10日) - 安永3年7月4日(1774年8月10日))は、江戸時代中期の商人[1]、義民[2]。俳号に梅古がある[1]。
経歴・人物
[編集]越後国直江津で廻船問屋を営む大庄屋福永家(越前屋)の第7代目[1][2]。高田藩の御用達[2]。
当時、高田藩では魚類販売が高田城下の田端町商人に独占されており、直江津入港の魚類を直江津商人が直接商うことが出来なかった[1][2]。そこで、宝暦元年(1751年)に大肝煎になった十三郎は、高田町奉行へ魚類の自由販売を願い出る[2]。しかしこれを聞きいれられなかったため、同5年(1755年)大肝煎を辞して販売独占の問題の解決に専念をはじめる[2]。同9年(1759年)には江戸幕府へ出訴し、田端町問屋との訴訟に挺身した[2]。
そしてついに安永3年(1774年)に評定所の裁定により、直江津入港の魚類の2割の町内での自由販売が認められ、また塩干魚の製造も解禁となった[2]。同年十三郎は故郷に戻るが急死する[2]。のち町民の手により十三郎を祀った福永神社が建てられた[2]。