神田隆久
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
官位 | 蔵人丞、豊前守 |
主君 | 大内義隆→義長→毛利元就→隆元→輝元 |
氏族 | 嵯峨源氏融流神田氏 |
兄弟 | 隆久、隆継 |
子 | 養子:元忠 |
神田 隆久(こうだ たかひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。周防国玖珂郡山代[1]の領主の一人。大内氏、毛利氏の家臣。
生涯
[編集]周防国玖珂郡山代[1]の領主の一つである神田氏に生まれ、大内義隆に仕える。
天文23年(1554年)、反陶氏の姿勢を明確にした毛利元就を討つため、宮川房長が山代の兵を率いて安芸国へ出陣したが、隆久は同じく山代の領主であった松原祐次と共に元就に誼を通じ、同年6月1日には山代の内の8ヶ所の所領[2]の安堵と望みの給地を与えることを約束される[3]。以後、隆久は毛利氏に仕えた。
天正5年(1577年)、毛利輝元の側近である松山惣四郎(後の三浦元忠)を養子として家督を譲った。しかし、天正15年(1587年)に元忠が仁保元棟(後の繁沢元氏)の娘婿となって仁保氏(三浦氏)の名跡を継ぐと、元忠の代わりに弟の隆継が家督を相続した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『萩藩閥閲録』巻90「神田彦右衛門」