神田清雄
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名前 | ||||||
カタカナ | カンダ キヨオ | |||||
ラテン文字 | KANDA Kiyoo | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1900年7月22日 | |||||
出身地 | 日本 大阪府 | |||||
没年月日 | 1970年5月9日(69歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
ユース | ||||||
1915-1918 | 明星商業学校 | |||||
1918-192x | 同志社大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
大阪サッカー倶楽部 | ||||||
代表歴 | ||||||
1923-1925 | 日本 | 4 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
神田 清雄(かんだ きよお、1900年7月22日[1] - 1970年5月9日)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。
来歴
[編集]大阪府出身[1]。大阪府明星商業学校に在学[2]し、本科1年時(16歳)の1915年から同校のサッカー部に所属。主将であった1917年度は第1回日本フートボール優勝大会(1918年1月開催)にも出場してチームの準優勝に貢献した[3]。
1918年に明星商業学校を卒業して同志社大学に進学しサッカー部に所属[4]。また、神田は八田卯一郎らの明星商業学校OBと共に1921年に大阪サッカー倶楽部を創設し、同チームに所属した[3][5]。
1923年5月に大阪で開催された第6回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、初出場となった5月23日のフィリピン代表戦など2試合に出場した[5]。
1925年5月に開催された第7回極東選手権競技大会の日本代表にも選出され2試合に出場した[6]。
大学卒業後は京阪電気鉄道に入社し、1942年に関西配電に転職。1951年に関西電力監事、1952年に大阪陶業専務、1957年に関電産業取締役となった[1]。
後に関西蹴球協会(現:関西サッカー協会)の会長を務めた[2]。1970年5月9日に死去した[3]。
代表歴
[編集]出場大会
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 4試合 0得点(1923-1925)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1923 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 |
1924 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1925 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 |
通算 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1923年05月23日 | 大阪府 | 大阪市立運動場 | フィリピン | ●1-2 | 西田満寿次郎 | 極東選手権 |
2. | 1923年05月24日 | 大阪府 | 大阪市立運動場 | 中華民国 | ●1-5 | 極東選手権 | |
3. | 1925年05月17日 | マニラ | フィリピン | ●0-4 | 山田午郎 | 極東選手権 | |
4. | 1925年05月20日 | マニラ | 中華民国 | ●0-2 | 極東選手権 |
脚注
[編集]- ^ a b c 『人事興信録 第25版 上』(人事興信所、1969年)か188頁
- ^ a b “タイムライン(2015年6月28日)”. 大阪 明星高校サッカー部 (2015年6月28日). 2016年9月25日閲覧。
- ^ a b c 『明星サッカー六十年史』 p.11-12, 2016年10月8日閲覧
- ^ “タイムライン(2015年3月5日)”. 同志社大学体育会サッカー部 (2015年3月5日). 2016年9月25日閲覧。
- ^ a b “第6回極東選手権大会”. 日本サッカー協会. 2016年9月25日閲覧。
- ^ “第7回極東選手権大会”. 日本サッカー協会. 2016年9月25日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 神田清雄 - National-Football-Teams.com