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神戸絢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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神戸 絢
別名 神戸 絢子
生誕 1879年2月16日
出身地 日本の旗 日本 東京府
死没 (1956-02-23) 1956年2月23日(77歳没)
学歴 東京音楽学校 (旧制)本科
(現東京芸術大学音楽学部)
ジャンル クラシック音楽
職業 音楽学校教授、ピアニスト、音楽家
担当楽器 ピアノ

神戸 絢(かんべ あや、1879年明治12年)2月16日 - 1956年昭和31年)2月23日)は、日本ピアニスト、音楽家、音楽学校教授。別名、神戸 絢子[1][2][3]

日本の洋楽界最古のピアニスト(洋琴家)として知られた[1]東京音楽学校 (旧制)を卒業後、母校で30年以上にわたって後進を指導し、従四位勲四等に叙せられた[1]

人物

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東京府人・梁田正直(元鳥取藩士族[4])の長女として、東京に生まれた[1][注釈 1]第百銀行監査役・神戸信義(元岡山藩士族・元藩主侯爵池田章政家扶[4])の養女となり[1]、姫路水力電気技師長・神戸順三郎(明治3年7月生、神戸信義の養子[4])と結婚[2]、長女貞子(明治34年3月生)をもうけた[4]。一家は1914年大正3年)に分家した[1]

8歳で女子仏学校(のちの仏英和学校)に入学し、10歳のときに初めてフランス人修道女からピアノの手ほどきを受けた[1]。17歳で文部省フランス語教員検定試験に合格、東京音楽学校 (旧制)本科(現東京芸術大学)に抜擢され、ピアノ科を専攻[1]ラファエル・フォン・ケーベルのもとに師事した。

1899年明治32年)に専修部を卒業し(卒業生総代[5]、同校の授業補助に就いた[2]。明治35年3月、同校助教授に就任[6]1907年(明治40年)、文部省外国留学生としてフランスへ留学し[1][注釈 2]パリ音楽院イシドール・フィリップに習った。帰国(1909年〈明治42年〉6月13日[7])の後は東京音楽学校教授をつとめ[1][8]、日本にフランス風の演奏技術を持ち込んだ。

この間、1918年大正7年)5月より、皇太子妃に冊立が決まった良子女王(のち昭和天皇皇后香淳皇后)に御学問所でピアノを教授した[1][3]

1930年(昭和5年)3月、高等官二等に陞叙、同時に東京音楽学校教授を退官して、同校講師に就任した[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 生まれを「東京日本橋」(『現代人名辞典』古林亀治郎編、中央通信社、1912年、カ之部49頁。)、「日本橋区」(北川由之助『日本之精華』毎日通信社、1914年、鳥取県之部-6頁。)とするほか、『因伯人名録 (鳥取図書館叢書 ; 第5篇)』(鳥取県立鳥取図書館など編、鳥取県立鳥取図書館、1934年、16頁。)では「明治12鳥取生」と記す。
  2. ^ 官報 1906年12月14日』では「ピアノ研究の為満二箇年独国へ留学を命ず」(12月13日付)とある。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『日本婦人の鑑 改訂』婦人評論社編、婦人評論社、1935年、212頁。
  2. ^ a b c 北川由之助『日本之精華』毎日通信社、1914年、鳥取県之部-6頁。
  3. ^ a b 『皇太子殿下良子女王殿下御略歴』文部省編、文部省、1923年、9頁。
  4. ^ a b c d 人事興信録』人事興信所、1911年、413頁。
  5. ^ 『官報 1899年07月12日』。
  6. ^ 『職員録』明治35年現在(甲)印刷局、1902年、603頁。
  7. ^ 『官報 1909年06月29日』。
  8. ^ 『官報 1909年06月07日』。

外部リンク

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