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祖国統一の五大方針について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
祖国統一五大方針から転送)
朝鮮語
ハングル조국통일오개방침
漢字祖國統一五個方針

祖国統一の五大方針について(そこくとういつ-ごだいほうしん-)は、1973年6月25日に、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金日成国家主席が行った演説。

概要

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北朝鮮と大韓民国(韓国)は互いにその正統性を主張し、朝鮮半島に単一の国家しか存在しないとする「一つのコリア(朝鮮)」の立場を取っていた。しかし、1972年7月の南北共同声明(7・4声明)で南北対話の可能性が開けた。北朝鮮の国際社会への進出により、韓国側の対北孤立化政策が現実的でなくなると、韓国の朴正煕大統領は、米国の説得に応じ、暫定的に「二つのコリア(朝鮮)」を容認することを6.23平和統一外交宣言朝鮮語版として表明した。

すると、同日、金日成国家主席はこれを「アメリカ帝国主義者と南朝鮮当局者の民族分裂永久化策動」であると激しく非難し、さらに6月25日に朝鮮労働党内の会議で改めて五大方針として示した。これは、1960年に続く、北朝鮮側による2回目の「連邦制」提唱の一環でもあった[1]

方針の中にある"高麗民主共和国"は、この後1980年高麗民主連邦共和国構想として発表された。さらに1991年に至り、南北両国は国連に同時加盟し、単一国号での加盟は実現しなかった。

背景

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中ソ対立以降、北朝鮮は両国から等距離を保とうとしていた[2]。しかし、1960年代以降の米中接近に伴う中国に対する不信や、1973年秋以降の第1次オイルショックを遠因としたソ連からの援助減少により、両国からの援助を期待できなくなった[2]。1970年代前半、北朝鮮の外交政策は「脱陣営」に傾いていた。

北朝鮮は1950年代以降、ソビエト連邦(ソ連)の後ろ盾で国際連合加盟を志向していたが、ソ連や東側諸国による北朝鮮加盟決議は否決され続けてきた[3]。1971年、いわゆるアルバニア決議で、中華人民共和国(中国)が国連加盟と常任理事国入りを果たしたことは、北朝鮮に追い風となるはずだった[3]。1972年、アメリカ合衆国ニクソン大統領が訪中(ニクソン大統領の中国訪問)して米中関係が改善した[注釈 1]。南北それぞれの後ろ盾となる国の和解は、南北のパワーバランスを変化させた[1]。同年7月4日に南北共同声明(7・4声明)で大韓民国(韓国)との対話の道が開かれた。

1973年には、北朝鮮は列国議会同盟(IPU)、世界保健機構(WHO)や国連貿易開発会議(UNCTAD)等に加盟し、国際社会への地歩を固めつつあった[4]。韓国による北朝鮮の孤立化政策は現実にそぐわず、同国の朴正煕大統領は、米国の説得に応じ「一つのコリア」政策から、暫定的に「二つのコリア」を容認する方向に舵を切り、『平和・統一外交政策に関する特別声明』(6.23平和統一外交宣言朝鮮語版、6・23宣言)を発表した[4]

そして韓国側の宣言発表から8時間後、チェコスロバキア共産党グスターフ・フサーク書記長の歓迎群衆大会において金日成が表明したのが、本五大方針である[4]。そして、その内容を朝鮮労働党中央委員会・政治委員会拡大会議で改めて示したのが、この『祖国統一の五大方針について』である。

内容

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金日成は、冒頭で次のように激しく韓国側の6・23宣言を非難した。

「祖国統一の5大方針について」 (1973年6月25日)

このたびわれわれが祖国統一の5大方針を新たに提起したのは、きわめて重大な段階にいたったアメリカ帝国主義者と南朝鮮当局者の民族分裂永久化策動を粉砕し、祖国の自主的平和統一を早めるための積極的な措置であります。
(中略)
アメリカ帝国主義者の後押しのもとに、各面から「二つの朝鮮」陰謀をおし進めてきた南朝鮮当局者は、この 6月23日の午前ついに「特別声明」なるものを発表して、祖国の分断を永久化する「政策」を公然と世に宣言するまでにいたりました。南朝鮮当局者が「特別声明」でもちだした主張は要するに、わが国が分断したままの状態で北と南が別々に国連に加盟しようというものです。これはとうてい受け入れることのできない反民族的な主張であります。もし南朝鮮当局者の主張どおりにするならば、朝鮮民族は永久に二つに分裂し、南朝鮮人民は永久にアメリカ帝国主義者の植民地奴隷でありつづけるでしょう。

— 金日成、「祖国統一の5大方針について」[5]

そして、次の五大方針を掲げた。

(引用註:原文から、表記を箇条書きに改めた)

われわれが提起した祖国統一の5大方針は、

  • 北と南の軍事的対峙状態の解消と緊張の緩和、
  • 北と南の多面的な合作と交流の実現、
  • 北と南の各階層人民と諸政党大衆団体の代表からなる大民族会議の招集、
  • 高麗連邦共和国の単一国号による南北連邦制の実施、
  • 高麗連邦共和国の単一国号による国連加盟

をその内容としています。

— 金日成、「祖国統一の5大方針について」[6]

金日成は「二つのコリア」を激しく拒絶し、南北対話は決裂に至った[7]

影響

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1973年9月に開催された、第4回非同盟諸国首脳会議英語版(開催国:アルジェリアの旗 アルジェリア)は、冷戦下の二極化にあって国連加盟国(当時)の半数を超える76か国が参加しており、一定の勢力・影響力を持った[8]。この会議に北朝鮮は他の東側諸国が不参加のため参加を見送り、韓国は開催国のアルジェリアから拒否され、ともに出席することができなかった[8]。しかし、満場一致で「朝鮮問題に関する決議」が行われ、その内容は「祖国統一五大方針」と変わらなかった[8]

すなわち、韓国を排除したことで、非同盟諸国の北朝鮮に対する支持を対外的に示した[8]。「朝鮮に関する決議」は、非同盟諸国の後ろ盾を得た北朝鮮にとって、外交の大きな転換点となった[8]

同年11月、第28回国連総会第1委員会には、南北両国がオブザーバーとして出席した[9]駐韓国連軍や国連加盟問題を巡り、南北双方が決議案を示したが、いずれも過半数に賛同を得る見込みが立たなかった[9]。北朝鮮寄りの決議案を提案したアルジェリアも、ソ連側の働きかけにより票決しないことに合意した[9]

評価

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参考文献

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原文(日本語訳)
論考
  • 若杉, 美奈子「1970 年代前半における北朝鮮の「脱陣営」外交と政策展開過程」『アジア地域文化研究』第13巻、東京大学大学院総合文化研究科・教養学部アジア地域文化研究会、2017年3月31日、68-93頁、doi:10.15083/00047695ISSN 18800602 

脚注

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注釈

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  1. ^ 1972年9月に日中共同声明により日本が実質的に、1978年12月15日に米国が、それぞれ中国と国交を回復した。

出典

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  1. ^ a b 浅井良純 (2016年9月5日). “政策レポート:朝鮮半島の南北統一論とその展開”. 一般社団法人:平和政策研究所. 一般社団法人:平和政策研究所. 2023年3月12日閲覧。
  2. ^ a b (若杉 2017, p. 68)
  3. ^ a b (若杉 2017, p. 70)
  4. ^ a b c (若杉 2017, p. 72)
  5. ^ (祖国統一五大方針 1973, pp. 1–3)
  6. ^ (祖国統一五大方針 1973, p. 3)
  7. ^ (若杉 2017, p. 73)
  8. ^ a b c d e (若杉 2017, p. 74)
  9. ^ a b c (若杉 2017, p. 75)

関連項目

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外部リンク

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