新田原古墳群
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新田原古墳群 | |
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所在地 |
宮崎県児湯郡新富町大字新田 宮崎県西都市大字右松 |
位置 | 北緯32度6分8.8秒 東経131度25分39.3秒 / 北緯32.102444度 東経131.427583度座標: 北緯32度6分8.8秒 東経131度25分39.3秒 / 北緯32.102444度 東経131.427583度 |
形状 | 円墳、前方後円墳、方墳 |
出土品 | 埴輪、須恵器、鉄鉱、雲珠、石突 |
築造時期 | 3世紀(弥生時代終末期)~6世紀後半(古墳時代後期) |
史跡 | 国の史跡 |
特記事項 | 塚原古墳群、石船古墳群、山之坊古墳群、祇園原古墳群の総称 |
地図 |
新田原古墳群(にゅうたばるこふんぐん)は、宮崎県児湯郡新富町新田と西都市右松にある4つの古墳群の総称である。
概要
[編集]一ツ瀬川左岸にある新田原台地(海抜約70m)に円墳、前方後円墳、方墳など大小あわせて207基[1]が確認されている。1944年(昭和19年)11月13日に国の史跡に指定された[2][3]。
「新田原古墳群」という名称は、国による史跡指定時に新田村(現在の新富町)にあった古墳を行政単位で指定措置した結果であるが、2010年(平成22年)現在は、古墳の分布状況や築造時期から4つの古墳群に大別すべきと考えられており、東から塚原古墳群、石船古墳群、山之坊古墳群、祇園原古墳群と呼ばれている[4]。
祇園原古墳群は、円墳138基、前方後円墳14基、方墳1基、墳形不明1基の合計154基が確認されている[4]。石船古墳群の一部(第42~45号墳)は、1941年(昭和16年)の陸軍飛行場(現在の航空自衛隊新田原基地)建設に伴い、大師山公園に移転(縮尺を5分の1にして改葬)した[1][5]。
1824年(文政7年)8月、天領右松村(現在の西都市)の「佐土原領入田村境界同意書」付図の中に入田村(旧新田村、現在の新富町)と右松村の境界に「セタヲ塚」を確認しており、前方後円墳の前方部分が西都市、後円部が新富町として、当時の境界が現在にも継承されている[1]。
新田原古墳群は新富町が管理し、新富町教育委員会によって発掘調査が行われている。
主な古墳
[編集]- 百足塚古墳 - 墳長76.4m、後円部径32m、前方部幅43.6m、クビレ部幅38mの前方後円墳[4]
- 大久保塚古墳
- 弥吾郎塚古墳
- 水神塚古墳
- 機織塚古墳
- 霧島塚古墳
脚注
[編集]- ^ a b c 国指定史跡 新田原古墳群 保存管理計画策定書(1990年 新富町教育委員会)
- ^ 昭和19年11月13日文部省告示第1080号(参照:[1])
- ^ 新田原古墳群(文化遺産オンライン)
- ^ a b c 国指定史跡「新田原古墳群」史跡整備にともなう発掘調査概要報告書(13)(2010年3月 新富町教育委員会)
- ^ “お大師山公園と掩体壕”. 新富町職員ブログ. 新富町役場 (2014年3月5日). 2016年2月23日閲覧。
参考資料
[編集]- 国指定史跡 新田原古墳群 保存管理計画策定書(1990年3月 宮崎県新富町教育委員会)
- 国指定史跡「新田原古墳群」史跡整備にともなう発掘調査概要報告書(13) 祇園原古墳群(2010年3月 宮崎県新富町教育委員会)