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破山海明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
破山海明
1597年-1666年
蹇棟宇
旭東
生地 順慶府広安州大竹県
宗派 臨済宗
寺院 双桂堂
天通密雲
弟子 丈雪通酔
著作 『破山禅師語録』
『双桂草』
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破山海明(はざん かいめい、1597年 - 1666年)は、中国明末清初臨済宗の禅僧。字は懶愚、号は旭東。俗姓は蹇、名は棟宇。順慶府広安州大竹県の出身。本貫渝州巴県[1][2]

略歴

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1597年(万暦25年)、蹇弘と徐氏のあいだの子として生まれた[1][2]。14歳で両親を亡くした。

19歳で地元の寺院にて出家得度[1][2]1616年(万暦44年)、破山海明は四川を出て、至るところで遊学している[1]1619年(万暦47年)、破山海明は蘄州黄梅県破頭山に来て庵を結び、四祖寺、東禅寺で参禅し、仏経と高僧語録を読む[1][2]。破山海明は明朝江山が没落し、山河が砕け、「破山」と名づけた[1]1622年天啓2年)、破山海明は杖をついて東遊し、寧波府鄞県に来て、天童寺の高僧の天童密雲禅師のもとに入りました[1]。「臨済正宗第36代祖師」です[1]1632年崇禎5年)、破山海明は天童密雲を別れて、西は四川に帰って、相前後して万県の広済寺で、梁山県の太平寺、万年寺は経説を話して、経書を出版して、禅院を振興します[1]。破山海明は反清復明の将の姚玉麟の招待を受けて、夔州府梁山県に帰りました[3]。姚玉麟屯兵の地である金城山伝法です。1653年順治10年)、破山海明は梁山県万竹山で双桂堂を建て始め、自ら門聯を書きました。「二株嫩桂久昌昌、正快時人鼻孔;数畝荒田暫住住、稍安学士心腸」。寺院は「西南叢林の首」、「第一禅林」、「宗門の巨擘」と誉められています[1]。1666年(康熙5年)、享年69(満68歳没)で入滅。

著作

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  • 『破山禅師語録』
  • 『双桂草』

代表作

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自賛詩:

這个川老蜀、渾無奇特処。問禅禅不知、問教教非熟。懶散三十年、人天忽推出。握条短杖藜、打仏兼打祖。

『破山禅師語録』巻九「示空外禅人」:

天地間為人、為到出家地歩、極快活、極自在、無栄与人、無辱与人、天子不臣、諸侯不友、嘯傲雲山、吃清茶、飲清水、楽時曲、虎鹿為隣、松竹為伴、眼界自清、不同俗塵、通身徹底、唯一天真、天真之趣、花笑鳥鳴。

関連項目

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 邢彦玲 (2010年4月8日). “双桂堂開山祖師破山海明禅師” (中国語). ifeng.com. https://fo.ifeng.com/special/shuangguitang/beijingjieshao/detail_2010_04/08/515132_0.shtml 2021年10月8日閲覧。 
  2. ^ a b c d “梁平県双桂堂” (中国語). chinabuddhism.com.cn. (2012年3月13日). http://www.chinabuddhism.com.cn/zdsy/100/2012-03-13/267.html 2021年10月8日閲覧。 
  3. ^ 邢彦玲 (2010年4月8日). “双桂堂伝説” (中国語). ifeng.com. https://fo.ifeng.com/special/shuangguitang/beijingjieshao/detail_2010_04/08/515083_0.shtml 2021年10月8日閲覧。 

参考文献

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  • 熊少華 (2019). 『破山禅師評伝』. 重慶市: 重慶出版社. ISBN 9787229140908 
仏教の称号
先代
天童密雲
臨済宗第36代祖師
1622年–1666年
次代
丈雪通酔