砂防会館
砂防会館 | |
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情報 | |
用途 | 事務所、会議室、店舗、図書館 |
施工 | 清水建設東京支店(現本館)[1] |
建築主 | 全国治水砂防協会 |
階数 |
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着工 | |
竣工 | |
改築 | 2018年4月(本館) |
所在地 |
〒102-0093 東京都千代田区平河町二丁目7番5号 |
座標 | 北緯35度40分46.9秒 東経139度44分24.6秒 / 北緯35.679694度 東経139.740167度座標: 北緯35度40分46.9秒 東経139度44分24.6秒 / 北緯35.679694度 東経139.740167度 |
砂防会館(さぼうかいかん)は、一般社団法人全国治水砂防協会が本部を置き、管理運営する会館である。全国治水砂防協会の関連施設の他、テナントビルとしても用いられている。2015年2月、本館が老朽化により改築されることになり、下記各施設を別館に移転し2016年3月に閉鎖され[2]、2018年4月に完成した[3]。
概要
[編集]現在の建物
[編集]- 本館
- 別館A
- 別館B
- 完成:1993年3月
- 建物:地上6階、地下1階建て
- 主な施設
- 多目的会議室「シェーンバッハ・サボー」(最大1200人収容)
現存しない建物
[編集]- 旧本館
砂防会館と政治
[編集]1957年に砂防会館が完成すると同時に自民党本部が2階と3階にテナントとして入居した[4]。
1966年、永田町に自由民主会館が完成。同年4月、自民党本部が砂防会館から自由民主会館に移転すると[5]、空いた2階、3階に中曽根康弘と田中角栄はそれぞれの派閥の事務所を構えた。田中の後援会「越山会」のほか、4階には中曽根の個人事務所もあった[6]。
「砂防会館」「平河町」(砂防会館の所在地)の名は当時の田中やその派閥の代名詞であった。なお、ロッキード事件では、主な現金授受の場所と認定されている。1976年には、田中角栄を題材とした清水一行の小説『砂防会館3F』が発表されている。1976年の逮捕後、田中は個人事務所を隣のイトーピア平河町ビルに移すが[7]、派閥事務所はそのまま残した[6]。1983年12月の衆院選を経た後、田中派は最大の121人にふくれあがり、1984年4月には手狭になった派閥事務所を別館に移した[8]。
かつては前述のように中曽根康弘の個人事務所(2009年限りで退去)、保守新党と国民新党の本部、亀井静香の事務所、減税日本東京事務所(2012年末に退去)も砂防会館内にあった。解体前まで本館2階には志帥会の事務所が、4階には古賀誠の事務所があった[9]。
2016年3月17日、砂防会館解体前に志帥会(二階派)の派閥総会が開催された。二階派の顧問で衆議院議長を務めた伊吹文明は挨拶の中で「いくつかの政治のドラマがここで繰り広げられてきた」と述べた[10]。
現在[いつ?]では別館に、志帥会事務局や古賀誠・青木幹雄・森喜朗の個人事務所が入居している。
ギャラリー
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本館
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旧本館(現存せず)
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別館A
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赤木正雄像
脚注
[編集]- ^ “千代田区 砂防会館本館建て替えを清水で”. 建通新聞. (2016年9月6日) 2020年8月17日閲覧。
- ^ “自民「牙城」60年の歴史に幕=砂防会館、老朽化で建て替え”. 時事ドットコム (2015年4月26日). 2015年5月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年5月6日閲覧。
- ^ “【東京リポート】砂防会館本館建て替え 綿貫氏に聞く 「立山砂防を世界遺産に」”. 北日本新聞. (2018年4月23日) 2020年8月17日閲覧。
- ^ “東京・平河町 砂防会館=御厨貴”. 毎日新聞(東京朝刊) (2009年10月21日). 2009年12月10日閲覧。
- ^ 奥島貞雄『自民党総裁選―権力に憑かれた亡者たち』中央公論新社、2006年8月10日、69頁。
- ^ a b “【砂防会館物語(中)】「今太閤」田中角栄首相を生んだ戦後政治史の舞台”. 産経新聞. (2015年10月20日) 2020年8月2日閲覧。
- ^ 中澤雄大『角栄の「遺言」 「田中軍団」最後の秘書 朝賀昭』講談社+α文庫、2015年12月18日、359頁。
- ^ “【砂防会館物語(下)】主役は田中派から中曽根派へ 派閥の象徴 歴史に幕”. 産経新聞. (2015年10月21日) 2020年8月2日閲覧。
- ^ “【砂防会館物語(上)】長老が暗闘する伏魔殿 安倍首相の総裁選無投票再選でも…”. 産経新聞. (2015年10月19日) 2020年8月2日閲覧。
- ^ “戦後政治の舞台 砂防会館 建て替えで最後の派閥総会”. NHKニュース (2016年3月17日). 2016年3月17日閲覧。