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石高山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石 高山(せき こうざん)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人。

概要

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石高山の父のクルク(忽魯虎)はチンギス・カンに使えて河北平定に尽力した人物で、第2代皇帝オゴデイの治世には東昌・広平に40戸を与えられたため、広平に居住するようになっていた。石高山は1260年(中統元年)にクビライが即位するとこれに仕えるようになり、1262年(中統3年)には先帝モンケによって解体されていたタンマチを再編成するよう上奏した。この上奏を受け入れたクビライによって タンマチは再編成され、石高山はその一部を率いるようになった[1]1263年(中統4年)には管軍総管として息州に赴任し、軍令を厳しくしたため4年に渡って息州の治安は安定したという[2]

1271年(至元8年)からは南宋遠征に従軍し、石高山は光州棗陽及び襄陽・樊城の戦いなどに功績を挙げた。1273年(至元10年)にはアジュにしたがって淮河一帯を進み、翌年には江南に入り、顕武将軍に昇格となった。1275年(至元12年)には丞相バヤンの命によって寧国を攻略したが、略奪を厳しく禁じさせたという。その後は焦山方面に向い、宋将の孫虎臣・張世傑らと100里あまりに渡って転戦し、これらの功績によって信武将軍の号を与えられ高郵に鎮撫することになった[3]

南宋の平定が終わった後、クビライの下を訪れたバヤンは「痩身ながら善戦する者をがいたが、朕はその名を忘れてしまった」というクビライの問いに対してそれは石高山のことであろうと答え、また石高山の功績を大いに称えた。そこでクビライは石高山を召還して大都に邸宅を与え、軍団の指揮はその息子に委ねさせようとしたが、石高山は「臣の筋力はなお壮健であって、まだ国がため働くことができます。どうして自ら安穏とした生活を選びましょうか」と述べてこの処置を辞退した。石高山の返答を聞いたクビライは改めて顕武将軍の地位を授け、モンゴル高原における駐屯を命じた。後にモンゴル高原東部でナヤン・カダアンの乱が勃発すると石高山も叛乱鎮圧戦に従軍して功績を挙げ、蒙古侍衛親軍都指揮使の地位を授けられた。クビライの死後、オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位すると、石高山が高齢であることを憐れんで鈔300錠を与えて軍団の指揮を息子のココ・ブカに継がせた。その後、1303年(大徳7年)に自宅で石高山は亡くなった。享年76歳であった[4]

参考文献

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  • 元史』巻166列伝53石高山伝
  • 松田孝一「宋元軍制史上の探馬赤(タンマチ)問題 」『宋元時代史の基本問題』汲古書院、1996年

脚注

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  1. ^ 松田1996,172-175頁
  2. ^ 『元史』巻166列伝53石高山伝,「石高山、徳興府人。父忽魯虎、以侍衛軍従太祖定中原、太宗賜以東昌・広平四十餘戸、遂徙居広平之洺水。中統三年、高山因平章塔察児入見世祖、因奏曰『在昔太祖皇帝所集按察児・孛羅・窟里台・孛羅海抜都・闊闊不花五部探馬赤軍、金亡之後、散居牧地、多有入民籍者。国家土宇未一、宜加招集、以備駆策』。帝大悦、曰『聞卿此言、猶寐而覚』。即命与諸路同招集之。既籍其数、仍命高山佩銀符領之。四年、授管軍総管、鎮息州、軍令厳粛、寇不敢窺。居四年、辺境晏然、賜金符以奨之」
  3. ^ 『元史』巻166列伝53石高山伝,「至元八年、従取光州、克棗陽、進攻襄樊、皆有功。十年、従阿朮略地淮上。十一年、従下江南、以功升顕武将軍。十二年冬、丞相伯顔命以所部兵取寧国、下令無虜掠。既至城下、喩以禍福、寧国開門迎降、秋毫無犯。復令兵従至焦山、与宋将孫虎臣・張世傑転戦百餘里、殺獲甚多、以功賜金虎符、進信武将軍、鎮高郵」
  4. ^ 『元史』巻166列伝53石高山伝,「宋平、伯顔等朝京師、帝問『有瘦而善戦者、朕忘其名』。伯顔以高山対、且盛称其功。帝即召見、命高山自択一大郡以佚老、而以所部軍俾其子領之、高山辞曰『臣筋力尚壮、猶能為国駆馳、豈敢為自安計』。帝従之、進顕武将軍、領兵北征、屯亦脱山。十六年、命同忽都魯領三衛軍戍和林、因屯田以給軍儲、歳不乏用。乃顔叛、督戦有功、賜三珠虎符・蒙古侍衛親軍都指揮使、守衛東宮。成宗憫其老、以其子闊闊不花襲職、賜鈔三百錠。大徳七年、卒於家、年七十六」