石谷清定 (豊前守)
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 延享3年(1746年) |
死没 | 不明 |
別名 | 清貞、左門、次郎左衛門、左衛門 |
官位 | 従五位下豊前守 |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 石谷氏 |
父母 | 父:石谷清昌、母:新見正言の娘 |
兄弟 | 多門、磯野政典の妻、石谷清定、石谷因清の妻、義妹:菅沼正虎の娘 |
妻 | 新見正則の娘、後妻:高井綽房の養女 |
子 |
娘(石谷清豊の妻)、娘(阿部正簡の妻)、石谷清常、娘 養子:石谷清豊(田沼意誠の子)、養女:亀井清絹の妻(亀井清亮の娘) |
石谷 清定(いしがや きよさだ、延享3年(1746年) - 没年不明)は江戸時代の旗本。
生涯
[編集]宝暦10年(1760年)4月28日、15歳の時、はじめて徳川家重に拝謁する。宝暦12年(1762年)9月28日御小姓組に列し、同年12月15日から西城に勤仕する。明和3年(1766年)2月27日御小納戸となり、同年3月27日から西城に勤務し、同年12月19日布衣の着用を許される。安永8年(1779年)徳川家基が薨去したため、同年4月18日寄合に列する。天明元年(1781年)4月21日御小納戸に復帰し、同年5月28日から西城に仕える。天明2年(1782年)12月24日、家督を継ぐ。天明6年(1786年)閏10月7日より本城に仕える。寛政4年(1792年)12月24日、徳川家治の養女種姫の用人となり、寛政6年(1794年)種姫逝去により3月末日に勤めを解かれた。寛政7年(1795年)6月8日、西城の御小納戸となり、寛政9年(1797年)11月18日、従五位下豊前守に叙任された。
石谷清定の後は、田沼意次の弟である田沼意誠の子、石谷清豊が石谷清定の娘を妻として継いだ。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』