コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

石谷清定 (豊前守)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石谷清定
時代 江戸時代中期
生誕 延享3年(1746年
死没 不明
別名 清貞、左門、次郎左衛門、左衛門
官位 従五位下豊前
幕府 江戸幕府
氏族 石谷氏
父母 父:石谷清昌、母:新見正言の娘
兄弟 多門、磯野政典の妻、石谷清定石谷因清の妻、義妹:菅沼正虎の娘
新見正則の娘、後妻:高井綽房の養女
娘(石谷清豊の妻)、娘(阿部正簡の妻)、石谷清常、娘
養子:石谷清豊田沼意誠の子)、養女:亀井清絹の妻亀井清亮の娘)
テンプレートを表示

石谷 清定(いしがや きよさだ、延享3年(1746年) - 没年不明)は江戸時代旗本

生涯

[編集]

宝暦10年(1760年)4月28日、15歳の時、はじめて徳川家重に拝謁する。宝暦12年(1762年)9月28日御小姓組に列し、同年12月15日から西城に勤仕する。明和3年(1766年)2月27日御小納戸となり、同年3月27日から西城に勤務し、同年12月19日布衣の着用を許される。安永8年(1779年)徳川家基が薨去したため、同年4月18日寄合に列する。天明元年(1781年)4月21日御小納戸に復帰し、同年5月28日から西城に仕える。天明2年(1782年)12月24日、家督を継ぐ。天明6年(1786年)閏10月7日より本城に仕える。寛政4年(1792年)12月24日、徳川家治の養女種姫の用人となり、寛政6年(1794年)種姫逝去により3月末日に勤めを解かれた。寛政7年(1795年)6月8日、西城の御小納戸となり、寛政9年(1797年)11月18日、従五位下豊前守に叙任された。

石谷清定の後は、田沼意次の弟である田沼意誠の子、石谷清豊が石谷清定の娘を妻として継いだ。

参考文献

[編集]