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石川総為

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石川総為
時代 江戸時代中期
生誕 元禄16年(1703年
死没 宝暦元年3月16日1751年4月11日
別名 宗八郎、靱負、教豊・総益
戒名 寛清院殿総為日勝
墓所 東京都北区田端の大久寺
官位 従五位下備中
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家継吉宗
氏族 大久保氏石川氏
父母 父:大久保教福、母:某氏
養父:石川総因
兄弟 総為
養女:鈴木新蔵の女(水野忠福室)、佐治好耀の女(総乗外孫・総為室)
正室:総因養女(佐治好耀の女)
阿さち(久貝正保室)、総恒
阿やす(土屋応直室)
娘(大久保教房(総為実弟)養女)
阿ひで(諏訪頼致室)
阿ちか(諏訪頼致後室)、
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石川 総為(いしかわ ふさため)は、江戸時代中期の旗本。貞當系石川家(大島石川家)5代。

生涯

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元禄16年(1703年)小田原藩主大久保忠朝の甥大久保教福(旗本5千石)の三男として誕生し、正徳4年7月21日(1714年8月30日)将軍家継に拝謁した後、石川総因の養嗣子となり、総因の養女(大島石川家3代総乗の外孫)と婚姻する。享保13年9月7日(1728年10月9日)養父総因死去に伴い、同年12月12日(1729年1月11日)遺跡を継ぎ、火事場見廻役・常火消役を勤める。

元文元年12月16日(1737年1月16日)布衣を着することを許され、小姓組番頭に進み、同5年12月21日(1741年2月6日)従五位下・備中守に叙任される。御書院番頭となり、宝暦元年3月16日(1751年4月11日)死去した。

参考文献

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関連項目

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