石川総為
表示
時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 元禄16年(1703年) |
死没 | 宝暦元年3月16日(1751年4月11日) |
別名 | 宗八郎、靱負、教豊・総益 |
戒名 | 寛清院殿総為日勝 |
墓所 | 東京都北区田端の大久寺 |
官位 | 従五位下、備中守 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家継→吉宗 |
氏族 | 大久保氏→石川氏 |
父母 |
父:大久保教福、母:某氏 養父:石川総因 |
兄弟 |
総為 養女:鈴木新蔵の女(水野忠福室)、佐治好耀の女(総乗外孫・総為室) |
妻 | 正室:総因養女(佐治好耀の女) |
子 |
阿さち(久貝正保室)、総恒 阿やす(土屋応直室) 娘(大久保教房(総為実弟)養女) 阿ひで(諏訪頼致室) 阿ちか(諏訪頼致後室)、 |
石川 総為(いしかわ ふさため)は、江戸時代中期の旗本。貞當系石川家(大島石川家)5代。
生涯
[編集]元禄16年(1703年)小田原藩主大久保忠朝の甥大久保教福(旗本5千石)の三男として誕生し、正徳4年7月21日(1714年8月30日)将軍家継に拝謁した後、石川総因の養嗣子となり、総因の養女(大島石川家3代総乗の外孫)と婚姻する。享保13年9月7日(1728年10月9日)養父総因死去に伴い、同年12月12日(1729年1月11日)遺跡を継ぎ、火事場見廻役・常火消役を勤める。
元文元年12月16日(1737年1月16日)布衣を着することを許され、小姓組番頭に進み、同5年12月21日(1741年2月6日)従五位下・備中守に叙任される。御書院番頭となり、宝暦元年3月16日(1751年4月11日)死去した。
参考文献
[編集]- 『新訂 寛政重修諸家譜 第3』続群書類従完成会、1981年
- 『石川家譜難波録』