石川光昌
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(石川弾正から転送)
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 永禄7年(1564年) |
死没 | 慶長10年2月10日(1605年3月29日) |
別名 | 弾正 |
戒名 | 曹清院全山徳翁 |
墓所 | 長泉寺(福島県二本松市) |
主君 | 田村清顕→相馬義胤→上杉景勝 |
氏族 | 陸奥石川氏 |
父母 | 父:石川有信 |
兄弟 | 光昌、昌弘、光明 |
妻 | 正室:郡山藤致養女 |
石川 光昌(いしかわ みつまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。陸奥国安達郡百目木城主。石川弾正の通称で知られる。
生涯
[編集]永禄7年(1564年)、百目木城主・石川有信の子として誕生。百目木石川氏は塩松石橋氏の重臣で、三芦城主陸奥石川氏の庶流(第17代当主満朝の三男・盛光を祖とする)であり、光昌の伯母は宗家の第24代当主・晴光の正室であった。
父・有信は永禄11年(1568年)、大内義綱らと共に田村氏に内通して主君・石橋尚義を追放し、田村氏に従属していた。後に義綱の子・定綱が田村氏からの独立を目論むが光昌は同調せず、天正13年(1585年)、田村清顕とその婿伊達政宗に従って定綱を攻めた。その功により政宗から小手森城を与えられて移ったが、清顕の死後、宮森城主白石宗実の与力にされたことに不満を持ち、天正16年(1588年)の郡山合戦の際に相馬義胤に内応したため、小手森城は政宗の攻撃を受けて落城し、500人余が討ち取られた。この時に光昌も討死したとされることが多いが、実は光昌は義胤を頼って落ち延びていた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には、安達郡を領していた上杉景勝に仕えて最上義光攻めに参加したが、上杉軍が敗北の末に減封されると、上杉家を離れて流浪の身となった。
慶長10年(1605年)2月10日死去。享年42。