石川信義
いしかわ のぶよし 石川 信義 | |
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生誕 |
1930年 群馬県桐生市 |
死没 | 2020年7月2日(89歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 |
東京大学経済学部 東京大学医学部 |
職業 | 医師 |
配偶者 | あり |
子供 |
石川厚志(写真家・詩人) 宇多丸(ラッパー) |
石川 信義(いしかわ のぶよし、1930年〈昭和5年〉- 2020年〈令和2年〉7月2日 )は、日本の精神科医。三枚橋病院創設者。
人物
[編集]群馬県桐生市生まれ。旧制・群馬県立桐生中学校、海軍兵学校(78期)、旧制・第二高等学校を経て、1952年(昭和27年)に東京大学経済学部を卒業後、安田生命保険(現・明治安田生命保険)に入社[1]。しかし、医者になるため数年で退社し東京大学医学部に入学[1]。スキー山岳部に所属していた1961年(昭和36年)には、第5次南極地域観測隊に参加した。
1962年(昭和37年)に東京大学を卒業後、精神科医となり[1]、東京大学医学部附属病院神経科、東京都立松沢病院に勤務。同病院には4年ほど勤務するが[2]、このうち、1年間はライシャワー事件を起こした青年の主治医を務めた[3]。また、1965年(昭和40年)の東京大学カラコルム遠征隊に加わり、副隊長・登攀隊長を担った。
1968年(昭和43年)、既成の病院に見切りをつけ、志を同じくする数人の看護者と共に[4]、日本初の完全開放による精神病院の実現を試み[5]、群馬県太田市の郊外、山麓の小高い一角に三枚橋病院を創設[4]。病院は開放病棟のさきがけといわれ[6]、ディスコも常設し、自らDJを務め[5]、男女の交際も自由とするなど[7]、精神病院の自由・開放化、精神障害者の地域化(ノーマライゼーション)運動に尽力した。
禁煙するまで、ショートピースを愛喫していた[要出典]。
病院から引退後は、児童相談所で仕事を続けていたが[5]、2020年(令和2年)7月2日、長期闘病中であった持病のがんで容体が急変し急逝、享年89歳[8]。葬儀を望まない本人の遺志により、家族葬で見送られた[8]。
家族
[編集]息子に詩人・臨床心理士の石川厚志、ライムスターの宇多丸がいる。(両者は異母兄弟)[9]。
平日は病院のある群馬で暮らしており、自宅に戻ると家族で食事会を開き、近況報告を兼ねて「社会的弱者のためにどうしたらいいか」「偏見というのはどういうものか」など、自分の目指すところを話した[5]。宇多丸は、父について「父から学んだ考え方は僕のベース。心から尊敬しています」と明かし[5]、「破天荒で、漫画の主人公のような人」「周りに人が集まってくるスーパースター体質」とも評している[5]。
著書
[編集]- 『開かれている病棟 三枚橋病院でのこころみ』星和書店、1978年4月。ISBN 978-4791100187。
- 『開かれている病棟 おりおりの記』星和書店、1990年5月。ISBN 978-4791101986。
- 『心病める人たち 開かれた精神医療へ』岩波新書、1990年5月。ISBN 978-4004301226。
- 『鎮魂のカラコルム』岩波書店、2006年5月。ISBN 978-4000238373。
- 共著
- 仙波恒雄 石川信義『精神病院を語る―千葉病院・三枚橋病院の経験から』星和書店、1983年10月。ISBN 978-4791100934。
脚注
[編集]- ^ a b c “受験特集「俺はバカじゃない」の証明チャンス 宇多丸さんと受験”. 朝日新聞デジタル (2021年1月31日). 2021年8月8日閲覧。
- ^ 心病める人たち 開かれた精神医療へ 1990, p. 50.
- ^ 心病める人たち 開かれた精神医療へ 1990, p. 32.
- ^ a b 心病める人たち 開かれた精神医療へ 1990, p. 67.
- ^ a b c d e f “病院にディスコ 宇多丸、考え方の基盤はスター体質の父”. 朝日新聞デジタル (2018年4月22日). 2021年8月8日閲覧。
- ^ 石埼学、亜細亜法学42(2)、精神科閉鎖病棟の憲法学、2008年。
- ^ 心病める人たち 開かれた精神医療へ 1990, p. 77 - 78.
- ^ a b “石川厚志Twitter 2020年7月6日”. 2021年2月1日閲覧。
- ^ 『映画秘宝』2009年7月号 p.83。