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石尾治一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石尾治一
時代 安土桃山時代 - 江戸時代
生誕 弘治3年(1557年
死没 寛永8年7月26日1631年8月23日
改名 荒木治一→石尾治一
別名 通称:与兵衛、下野守、越後守、法名:道粒
墓所 祥雲寺
官位 従五位下
幕府 江戸幕府旗本
主君 荒木村重豊臣秀吉秀頼→浪人→有馬豊氏徳川秀忠
氏族 摂津荒木氏→石尾氏
父母 父:荒木元清、母:田井源助の娘
兄弟 渡辺四郎[1]、荒木新之丞[1]治一荒木元満[2]
渡辺周防守の娘
十兵衛[3]治昌
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石尾 治一(いしお はるかず)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将旗本

生涯

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弘治3年(1557年)、荒木村重の一族である荒木元清の三男として生まれた[4]

村重の乱で一族の大半は亡くなるが、天正8年(1580年)、摂津花隈城は開城して降伏したので、父・元清、治一、弟・元満は、難を逃れた。(後に)豊臣秀吉に仕えた[5]

時期はわからないが、治一は荒木姓から石尾姓に改める[5]

秀吉馬廻で、黄母衣衆に選ばれた[4]

文禄元年(1592年)、肥前名護屋城に駐屯[4]。『松浦古事記』によれば、三ノ丸御番衆の御馬廻組で、五番中井組(中井平右衛門)に属した。

文禄3年(1594年)、伏見城普請の奉行。『甫庵太閤記』によれば、普請奉行六人[6]の一人に選ばれていたという[7]

慶長3年(1598年)に子の十兵衛を使者として徳川秀忠に挨拶状を送り、返事をもらった[5]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与して失領し[4]黒田長政に身柄を預けられたが、慶長8年(1603年)に赦免を受けて京都に住んだ[5]

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、招かれて有馬豊氏の軍勢に加わった[5]

慶長20年(1615年)より徳川秀忠に仕え、5月の大坂夏の陣では、本多忠純隊に加わって従軍した[5]

寛永8年(1631年)に死去。享年75。

脚注

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  1. ^ a b 伊丹城(有岡城)落城の際に荒木村重の妻子と共に捕らわれ、織田信長の命令で処刑された。
  2. ^ 豊臣秀次の家臣で、秀次切腹事件に連座して遠流。後に黒田長政のもとに寄食し、馬術に詳しいということから、徳川秀忠に仕えた
  3. ^ 慶長19年6月11日に死去。
  4. ^ a b c d 高柳 & 松平 1981, p. 29.
  5. ^ a b c d e f 堀田 1923, p. 384.
  6. ^ 佐久間政実滝川忠征佐藤堅忠・水野亀助(人物不明)・竹中重定竹中重利の弟)・石尾治一の六人。
  7. ^ 桑田 1971, p. 103.

参考文献

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