石尾治一
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代 |
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生誕 | 弘治3年(1557年) |
死没 | 寛永8年7月26日(1631年8月23日) |
改名 | 荒木治一→石尾治一 |
別名 | 通称:与兵衛、下野守、越後守、法名:道粒 |
墓所 | 祥雲寺 |
官位 | 従五位下 |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 荒木村重→豊臣秀吉→秀頼→浪人→有馬豊氏→徳川秀忠 |
氏族 | 摂津荒木氏→石尾氏 |
父母 | 父:荒木元清、母:田井源助の娘 |
兄弟 | 渡辺四郎[1]、荒木新之丞[1]、治一、荒木元満[2] |
妻 | 渡辺周防守の娘 |
子 | 十兵衛[3]、治昌 |
石尾 治一(いしお はるかず)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。旗本。
生涯
[編集]弘治3年(1557年)、荒木村重の一族である荒木元清の三男として生まれた[4]。
村重の乱で一族の大半は亡くなるが、天正8年(1580年)、摂津花隈城は開城して降伏したので、父・元清、治一、弟・元満は、難を逃れた。(後に)豊臣秀吉に仕えた[5]。
時期はわからないが、治一は荒木姓から石尾姓に改める[5]。
文禄元年(1592年)、肥前名護屋城に駐屯[4]。『松浦古事記』によれば、三ノ丸御番衆の御馬廻組で、五番中井組(中井平右衛門)に属した。
文禄3年(1594年)、伏見城普請の奉行。『甫庵太閤記』によれば、普請奉行六人[6]の一人に選ばれていたという[7]。
慶長3年(1598年)に子の十兵衛を使者として徳川秀忠に挨拶状を送り、返事をもらった[5]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与して失領し[4]、黒田長政に身柄を預けられたが、慶長8年(1603年)に赦免を受けて京都に住んだ[5]。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、招かれて有馬豊氏の軍勢に加わった[5]。
慶長20年(1615年)より徳川秀忠に仕え、5月の大坂夏の陣では、本多忠純隊に加わって従軍した[5]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、29-30頁。
- 桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年、103-104頁。ASIN B000J9GTRU
- 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 石尾氏」『寛政重脩諸家譜. 第5輯』國民圖書、1923年、381-382, 384頁 。