石坂義礼
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(石坂弥次右衛門義礼から転送)
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化6年(1809年) |
死没 | 慶応4年(1868年) |
別名 | 弥次右衛門 |
墓所 | 興岳寺(東京都八王子市) |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家 |
氏族 | 石坂家 |
父母 | 徳誼 |
子 | 石坂鈴之助 |
石坂 義礼(いしざか よしかた、文化6年(1809年) - 慶応4年(1868年))は、幕末の旗本。八王子千人頭。通称、弥次右衛門。父は石坂徳誼。日光を新政府軍に無血で明け渡し、切腹した。子の石坂鈴之助は後に彰義隊参加。
略歴
[編集]1868年(慶応4年)、日光勤番中の義礼は、戊辰戦争において板垣退助の率いる新政府軍が日光に迫るを知り、日光を戦禍から守るべく幕府軍の大鳥圭介等に相談の上、日光を新政府軍に明け渡した。しかし、八王子に帰還した義礼に対して、一戦も交えず日光を官軍に明け渡したことの責任を追及する声が強く、義礼は老父・徳誼の介錯により切腹して果てた。享年60。菩提寺・興岳寺(八王子市千人町1-2-8)に葬られた。
義礼が下した日光明け渡しの決断は世界遺産・日光を今に伝えることとなり、その縁もあり日光市と八王子市は姉妹都市となる。1966年(昭和41年)4月、興岳寺境内に義礼の顕彰碑が建てられ、その墓前には日光市から贈られた香炉が置いてある。義礼の墓は八王子市の指定史跡となる。
子の石坂鈴之助は後に彰義隊(徳川霊廟警護)に参加。罪は不問とされて、浜松に移住した記録が残る。
参考文献
[編集]- 志村貞廉『志村貞廉日記』八王子市教育委員会、2012年
- 馬場憲一 「法政史学 31巻」、法政大学史学会、1979年
関連項目
[編集]- 井上松五郎・・・最後の日光勤番に勤務。日記を残す。