石光真臣
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生誕 |
1870年6月7日(明治3年5月9日) 日本 熊本藩託麻郡本山村 (現:熊本県熊本市中央区) |
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死没 | 1937年12月8日(67歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1888年 - 1925年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 |
東京南部警備司令官 第1師団長 |
石光 真臣(眞臣)(いしみつ まおみ、1870年6月7日(明治3年5月9日) - 1937年(昭和12年)12月8日)は、日本陸軍の軍人。陸軍中将従三位勲一等功四級。日露戦争時の諜報活動で知られる石光真清は兄。
略年譜
[編集]- 明治21年(1888年)
- - 陸軍幼年学校卒業 野戦砲兵第2連隊入隊
- 明治23年(1890年)
- 明治24年(1891年)
- - 陸軍砲兵少尉
- 明治33年(1900年)
- - 陸軍大学校卒業(14期)
- 明治36年(1903年)
- 明治37年(1904年)
- - 第十連隊大隊長
- 明治38年(1905年)
- 大正7年(1918年)
- - 憲兵司令官
- 大正8年(1919年)
- - 陸軍中将
- 大正9年(1920年)
- - 馬政局長官
- 大正11年(1922年)
- - 第1師団長
- 大正12年(1923年)
- - 関東大震災の際、帝都警備の為、東京南部警備司令官として活躍
- 大正14年(1925年)
- - 予備役
栄典
[編集]- 位階
- 1892年(明治25年)2月3日 - 正八位[3]
- 1893年(明治26年)12月16日 - 従七位[4]
- 1896年(明治29年)5月15日 - 正七位[5]
- 1919年(大正8年)9月10日 - 従四位[6]
- 1925年(大正14年)6月24日 - 従三位[7]
- 勲章等
家族・親族
[編集]- 兄 真澄、安熊、真清(軍人)
- 姉 真知子、真佐子
- 妹 真都(橋本卯太郎(大日本麦酒常務ほか)の妻、息子が橋本龍伍)
- 妻 鶴子(宮城県出身)
- 長男 真守(実業家)- 四男四女がいる
- 叔父 野田豁通(軍人)
- 甥 橋本龍伍[12]
系譜
[編集]- 石光家
東季彦 ┏栃原知定 ┃ ┃ ┏石光真澄 ┣━━━東文彦 ┗守家 ┃ ┃ ┃ ┣石光真清━菊枝 ┣━━━━┫ ┃ ┣石光真臣 ┏石光真民 ┃ ┃ ┗真津 ┃ ┃ ┗野田豁通 ┣━━━橋本龍伍━┳橋本龍太郎 ┃ ┃ 橋本卯太郎 ┗橋本大二郎
脚注
[編集]- ^ 秦 2005, p. 18, 第1部 主要陸海軍人の履歴:陸軍:石光真臣
- ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、106頁。
- ^ 『官報』第2576叙任及辞令」1892年2月4日。
- ^ 『官報』第3142号「叙任及辞令」1893年12月18日。
- ^ 『官報』第3862号「敍任及辞令」1896年5月16日。
- ^ 『官報』第2132号「叙任及辞令」1919年9月11日。
- ^ 『官報』第3888号「叙任及辞令」1925年8月8日。
- ^ 『官報』第3749号「叙任及辞令」1895年12月25日。
- ^ 『官報』第2046号「叙任及辞令」1919年5月31日。
- ^ 『官報』第2903号「叙任及辞令」1922年4月10日。
- ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
- ^ 子は政治家になった橋本龍太郎(元総理大臣)、橋本大二郎(元高知県知事)兄弟
- ^ 石光真清『城下の人』中公文庫、17頁