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石丸志都磨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石丸 志都磨(いしまる しとま[1] / しずま[2]1878年明治11年)8月25日[1][3] - 1960年昭和35年)3月28日[1][3])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将満州国軍中将。旧姓・相良。

経歴

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佐賀県出身[1][2][3]。相良頼懐の二男として生まれ、石丸康順[注 1]の養子となる[1][4]。中學済々黌(現熊本県立済々黌高等学校)を経て、1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し[3]、翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第13連隊付となる[1][5]。1904年(明治37年)5月から1906年(明治39年)4月まで日露戦争に出征した[2]。この間、辛碇泊場司令部員を務めた[1]

1906年12月、歩兵第13連隊中隊長に就任[1]。陸士中隊長兼教官を経て、1914年(大正3年)8月、歩兵少佐に昇進し歩兵第2連隊付となる[1]。1915年(大正4年)6月、同連隊大隊長に就任し、第14師団副官を経て、1918年(大正7年)7月、歩兵中佐に昇進し歩兵第59連隊付となり、1919年(大正8年)3月から同年8月までシベリア出兵に出征した[1]。1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に進み高崎連隊区司令官に就任した[1][2]

1925年(大正14年)3月、歩兵第17連隊長に転じ、1924年(昭和3年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第14旅団長となる[1][2][3]。1929年(昭和4年)3月、第8師団司令部付に異動し、1931年(昭和6年)3月、予備役に編入された[1][2][3]

その後、満州国の招聘を受け、1933年(昭和8年)6月から1935年(昭和10年)4月まで同国侍従武官を務め、1934年(昭和9年)7月、満州国軍中将となり、1935年10月に退役した[1][4]。その後、日満帝国婦人会理事長、東亜報徳会幹事などを務めた[1][4]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

戦後には蘭星会会長となった[1]

親族

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  • 妻 石丸寿子(松居吉統・陸軍少将の二女)[1][4]

栄典

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『人事興信録』第13版 上、イ177頁では「石丸原順」。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本陸海軍総合事典』第2版、18頁。
  2. ^ a b c d e f 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』163頁。
  3. ^ a b c d e f 『日本陸軍将官辞典』71頁。
  4. ^ a b c d 『人事興信録』第13版 上、イ177頁。
  5. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』156、163頁。
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」37頁。
  7. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第13版 上、人事興信所、1941年。