知念第二サイト
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知念第二サイト Chinen Site 2 | |
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知念半島の米軍基地 | |
知念第一サイト・知念第ニサイト 1970年の空中写真では黒塗りされている。 | |
種類 | FAC6269 |
施設情報 | |
管理者 | 沖縄の米軍基地 |
歴史 | |
使用期間 | 1945-1973 |
知念第二サイト(ちねんだいにサイト、英語: Chinen Site No.2)は、沖縄県南城市の知念半島にあったアメリカ陸軍のミサイルサイト。南城市佐敷(西側)にある管理施設と南城市知念(東側)にあるミサイルサイトの2か所に分かれていた。1973年に航空自衛隊に移管され、知念分屯基地の管理地区と運用地区となった。
概要
[編集]知念第2陸軍補助施設
- 旧名: 知念第二陸軍補助施設(Chinen Army Annex No.2)
- 改称: 知念第二サイト(Chinen Site No.2)[1]
- 施設番号: FAC6269
- 所在地:玉城村、知念村、佐敷村(北側)
- 面積:約311,600m2
- 管理:アメリカ陸軍
施設番号 | 基地名(1972年時点) | 旧称 | 現在 |
FAC6268 | 知念第一サイト | 知念第1陸軍補助施設 | 陸上自衛隊知念分屯地 |
FAC6269 | 知念第二サイト | 知念第2陸軍補助施設 | 航空自衛隊知念分屯基地 |
歴史
[編集]- アメリカ陸軍第30防空砲兵旅団が「知念第二陸軍補助施設」として使用。
- 1957年7月8日 - アメリカ公文書館の記録にナイキ・ハーキュリーズの配備計画が知念サイトを含む8か所であると記載されている。アメリカ陸軍第30防空砲兵旅団が「知念第二陸軍補助施設」として使用[2]。
- 1972年5月15日 - 沖縄返還にともない「知念第二サイト」に名称変更(ミサイル・サイト)[1]。
ナイキ配備 | 備考 | ||
1 | 第1サイト | ボロー・ポイント射撃場(読谷) | 返還 |
2 | 第2サイト | 恩納ポイント(恩納サイト) | 航空自衛隊恩納分屯基地に移管 |
3 | 第3サイト | 石川陸軍補助施設(天願) | 返還 |
4 | 第4サイト | 西原陸軍補助施設(ホワイト・ビーチ地区) | 返還 |
5 | 第5サイト | 普天間飛行場 | |
6 | 第6サイト | 知念第二サイト | 航空自衛隊知念分屯基地に移管 |
7 | 第7サイト | 与座岳サイト | 陸上自衛隊南与座分屯地に移管 |
8 | 第8サイト | 那覇サイト | 航空自衛隊那覇基地に移管 |
航空自衛隊知念高射教育訓練場
[編集]- 航空自衛隊「知念分屯基地」
- 第18高射隊及び第16高射隊が駐屯
1973年1月31日、約2,000m2の引渡し。2月15日、航空自衛隊那覇基地隊において知念訓練隊を新編。約3か月間、アメリカ兵が自衛官にミサイルについての整備OJT(実務訓練)を実施後、5月14日、約310,000m2が引き渡され、新設の第18高射隊に管理が移管される[3]。
1974年1月9日、沖縄返還協定了解覚書B表に基づき、残り部分がすべて自衛隊に引き継がれる。
1996年2月1日、第16高射隊が新編される。
高台に位置する運用地区と運用地区から約2.5km離れた管理地区から成る。現在はハーキュリーズではなくパトリオットが配備されている[4]。
佐敷ようどれ
[編集]琉球王国を建てた尚巴志の父・尚思紹一族を奉った霊廟。1957年、アメリカ軍がこの地域を接収すると通告した。アメリカ軍基地内にあるまま、県は1958年に県の史跡として指定した。
現在は航空自衛隊知念分屯基地内にあり、南城市教育委員会が管理しており、分屯基地にゲートで申し込むことで見学できる[5]。
脚注
[編集]- ^ a b Agreement with Japan Concerning the Ryukyu Islands and the Daito Islands, Signed at Washington and Tokyo on June 17, 1971
- ^ 沖縄県「米軍基地環境カルテ - 知念第二サイト」(平成 29年3月)
- ^ 沖縄県「米軍基地環境カルテ 知念第二サイト」(平成29年3月)
- ^ 沖縄県「沖縄の米軍及び自衛隊基地(統計資料集)」平成27年3月
- ^ “佐敷ようどれ|航空自衛隊について|防衛省 [JASDF 航空自衛隊]”. www.mod.go.jp. 2021年3月19日閲覧。