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矢部定清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
矢部 定清
時代 戦国時代後期 - 江戸時代前期
生誕 弘治2年(1556年
死没 元和8年5月6日1622年6月14日[1]
別名 掃部[1]
戒名 日覚[1]
墓所 幸国寺[1]
幕府 江戸幕府 細工頭
主君 今川氏真徳川家康秀忠[1]
氏族 駿河矢部氏
父母 父:矢部定則[1]
大岡直吉の妻、定知仁科宗安の妻、定勝久保正元の妻、三枝吉勝の妻、大久保忠尚の妻、定成定政[2]
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矢部 定清(やべ さだきよ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将。

略歴

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矢部氏駿河国有渡郡矢部の武士。戦国時代には同国守護今川氏に仕え、定清も最初は今川氏真に仕えた[1]

天正18年(1590年関東転封された徳川家康に仕官し、武蔵国荏原郡知行を与えられ、文禄元年(1592年)からは家康の嫡男・秀忠の配下となる。慶長元年(1596年)細工頭となり同心5人、慶長6年(1601年上野国緑野郡に加増され同心7人、慶長14年(1609年)所領を下総国千葉郡にまとめられて440石となった。慶長19年(1619年)からの大坂の陣にも参陣した。元和8年(1622年)に死去[1]

脚注

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注釈

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出典

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参考文献

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  • 寛政重修諸家譜』 12巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0216-1