矢部定清
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時代 | 戦国時代後期 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 弘治2年(1556年) |
死没 | 元和8年5月6日(1622年6月14日)[1] |
別名 | 掃部[1] |
戒名 | 日覚[1] |
墓所 | 幸国寺[1] |
幕府 | 江戸幕府 細工頭 |
主君 | 今川氏真、徳川家康、秀忠[1] |
氏族 | 駿河矢部氏 |
父母 | 父:矢部定則[1] |
子 | 大岡直吉の妻、定知、仁科宗安の妻、定勝、久保正元の妻、三枝吉勝の妻、大久保忠尚の妻、定成、定政[2] |
矢部 定清(やべ さだきよ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将。
略歴
[編集]矢部氏は駿河国有渡郡矢部の武士。戦国時代には同国守護の今川氏に仕え、定清も最初は今川氏真に仕えた[1]。
天正18年(1590年)関東に転封された徳川家康に仕官し、武蔵国荏原郡に知行を与えられ、文禄元年(1592年)からは家康の嫡男・秀忠の配下となる。慶長元年(1596年)細工頭となり同心5人、慶長6年(1601年)上野国緑野郡に加増され同心7人、慶長14年(1609年)所領を下総国千葉郡にまとめられて440石となった。慶長19年(1619年)からの大坂の陣にも参陣した。元和8年(1622年)に死去[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』 12巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0216-1。