矢橋徳次郎
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やばし とくじろう 矢橋 徳次郎 | |
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生誕 |
1858年(安政5年)4月1日 日本 |
死没 | 1927年(昭和2年)1月24日 |
国籍 | 日本 |
民族 | 日本人 |
職業 |
実業家 大地主 |
活動期間 | 19世紀 |
活動拠点 | 美濃赤坂 |
純資産 | 岐阜県多額納税者 |
肩書き | 株式会社赤坂銀行(十六銀行の前身)・取締役 |
配偶者 | 矢橋じう |
子供 |
矢橋敏郎(子) 矢橋郁二(子) 矢橋省三(子) 矢橋和夫(子) 矢橋豊二(子) |
親 | 矢橋藤十郎 |
親戚 |
矢橋為吉(弟) 矢橋賢吉(弟) |
矢橋 徳次郎(やばし とくじろう、1858年(安政5年)4月1日 - 1927年(昭和2年)1月24日)は、日本の実業家、銀行経営者。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る(アーカイブ)」矢橋家[注釈 1][1][2][3][4]・惣本家の当主。株式会社赤坂銀行・取締役、大垣銀行・取締役。大地主[5]。岐阜県多額納税者。国会議事堂の設計をまとめた中心人物・矢橋賢吉は実弟。
略歴
[編集]1858年(安政5年)4月1日、美濃赤坂にて矢橋藤十郎の長男として生まれる。国会議事堂の設計をまとめた中心人物・矢橋賢吉は次弟。 1878年(明治11年)9月、家督を相続する。岐阜県屈指の大地主。岐阜県最多額納税者となる。
1874年以降県会議員に3期当選、美濃実業銀行、高須貯蓄銀行、赤坂銀行及び大垣銀行などの取締役を務めた。 [6][7][8][9][10]
系譜
[編集]江戸中期 (分立) 以前
[編集]- 十世祖父 - 矢橋彦十郎(1625年2月8日没。昌嫡男 小字吉。室長松城主渡部筑前守女。桓武天皇第二皇子の嵯峨天皇にまで遡るとされる系譜 (「註釈一覧 3) 矢橋家」)。「為織田信長公加勢致シ、於江州矢橋手柄有之、天文ノ頃浪人ト成、天正元酉年濃州赤坂ニ住ス、父渡辺新左ェ門尉江州矢橋ニ住ス、故ニ後在名ヲ以テ矢橋ヲ名乗」とある。)
- 九世祖父 - 矢橋四郎右衛門(1631年8月5日没。父迪十郎改姓後代々矢橋ヲ名乗。字喜。室高屋道意妹他。)
- 八世祖父 - 矢橋四郎右衛門(1685年2月20日没。旧 小字長吉。室矢橋太兵衛女)
- 七世祖父 - 矢橋三郎兵衛(1691年6月28日没。垂 号交慰。室矢橋久左衛門女)
- 六世祖父 - 矢橋藤十郎(1722年11月18日没。孝 号木巴。室大垣川村太郎ェ門女。)
江戸中期 (分立) 以後
[編集]惣本家
[編集]- 鼻祖(五世祖父) - 矢橋藤十郎(六世祖父・矢橋藤十郎(1722年11月18日没。孝 号木巴。)の実子。本家始祖・矢橋三郎兵衛(1761年11月22日没、元連 小字徳四郎。)の実兄。1775年8月晦没。宅教 小字惣四郎 号李明。「矢橋惣本家 今称東矢橋又辻矢橋」。室矢橋久左ェ門女。)
- 高祖父 - 矢橋藤十郎(1806年5月2日没。小字惣太郎 後隠居改友仙。年77)
- 曾祖父 - 矢橋藤十郎(1827年10月16日没。字子交 小字太郎吉 号丹陽又号酔月楼。年72)
- 祖父 - 矢橋彦十郎(1833年6月4日没。字交翰 小字弥吉後改培介 号鳥江 柳家とも。年45。)
【父母の世代】
[編集]- 父 - 矢橋藤十郎(1894年3月12日没。小字増次郎 号十衛。室矢橋宗太郎二女勝後改幾世)
- 母 - 矢橋幾世(1911年4月7日没。矢橋本家当主・矢橋宗太郎二女。行年79。)
【同世代】
[編集]- 長弟 - 矢橋為吉(生年不詳-1936年1月没。1893年4月より1901年3月まで、大垣市赤坂村 (同村は1901年5月21日より町制施行) 赤坂尋常高等小学校校長)
- 次弟 - 矢橋賢吉(1869年10月、美濃赤坂生まれ。営繕官僚、建築家。国会議事堂の設計をまとめた中心人物。国会議事堂建設営繕組織の中心人物〈国会議事堂#歴史#国会議事堂と建築家 及び #営繕組織参照〉。近代公共建築を支えた中心人物。)
- 妻 - 矢橋すて(1880年生まれ。1959年5月25日没。行年80)
【子の世代】
[編集]- 長男 - 矢橋敏郎(1891年10月27日生まれ。1993年5月29日没。行年103)
- 二男 - 矢橋郁二(伊東郁二)
- 甥(長弟・為吉の実子) - 矢橋潤二(1952年没。行年61)
- 姪(次弟・賢吉の実子) - きみ(1896年2月10日生。1967年12月9日没。行年71)
本家
[編集]- 鼻祖 - 矢橋三郎兵衛(六世祖父・矢橋藤十郎(1722年11月18日没。孝 号木巴。)の実子。惣本家始祖・五世祖父・矢橋藤十郎 (1775年8月晦没。宅教 小字惣四郎)の実弟。1761年11月22日没。元連 小字徳四郎 号李仙。寿50。室京都人図司多美。)
遠縁
[編集]- 遠縁 - 所郁太郎 (美濃赤坂生まれ。蘭方医、幕末の志士。1838年造り酒屋・矢橋亦一 (美濃赤坂宿 ■所郁太郎■矢橋家) の四男。梁川星巌と親交。適塾塾頭。井上馨の救命、高杉晋作への協力で知られる。)
家系図
[編集]「矢橋家家系図」によれば、矢橋家(惣本家・本家・南矢橋・北矢橋)は、嵯峨天皇・源融(紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの有力候補)まで遡る[注釈 1][11][2][3][4][12]。
遠縁[15]:所郁太郎(実父・矢橋亦一、養父・所伊織)(大垣藩の生まれ、適塾塾頭、暗殺者に襲われた元勲・井上馨を治療した医師、幕末の志士、高杉晋作の参謀、長州藩遊撃隊軍監、従四位追叙)
注釈
[編集]- ^ a b 「……矢橋家は俳人松尾芭蕉も泊まった県内屈指の旧家。「日本外史」の著者・頼山陽も来遊したり、吉田茂の側近だった白州次郎の妻で随筆家の白州正子も幾度となく同家の牡丹園を訪れている。
先祖は嵯峨天皇から分かれた氏族・嵯峨源氏までさかのぼる。大垣の赤坂に住み、矢橋の姓を名乗ったのは彦十郎から。矢橋総本家初代当主だ。
5代目から藤十郎を襲名し、初代藤十郎は木因に師事し木巴と号し俳句をたしなんだ。2代目は、号を李明、4代目は丹陽、5代目(彦十郎を名乗る)は鳥江。6代目で再び藤十郎を名乗り号は十衛といった。
初代藤十郎の五男・三郎兵衛は分家。号は李仙。二代目、三代目も赤山、赤水と号して漢詩を作り、いずれも遺稿がある。矢橋家は、歴代、俳句や漢詩をたしなんできたのだ。
矢橋家が起業の道を歩むのは、三郎兵衛の6代目・宗太郎から。長男は敬吉で、当主は龍吉、龍太郎へと継がれ、林業、石灰業を興した。龍太郎はミツカングループの創業家、中埜家の7代目又ェ衛門の次女・茅子と結婚。その長男が現在、矢橋ホールディングスを率いる龍宜(52)だ。
敬吉の次男は次郎。その孫が慎哉(66)でグループ会社・矢橋工業の社長を務める。父の宗一も同社の会長を務めた。
(中略)
一方、宗太郎の五男・亮吉は分家し、後に1人3業(金融、大理石、育英事業)を成し遂げる。長男・太郎が早世し、次男の次雄が亮吉を襲名。太郎の孫・修太郎(66)が次雄の養子となり矢橋大理石の社長を務める。
亮吉の四男・五郎は、関ケ原製作所や関ケ原石材を興した。関ケ原製作所は現在、五郎の三男・昭三郎(74)が社長を経て会長を務めている。関ケ原石材は、長男・謙一郎が社長を務めた後、その長男・達郎(52)が社長を経て会長を務める。
まだまだ矢橋家は逸材を輩出している。亮吉の長男・太郎の娘婿の浩吉は、イビデンの社長(1973年9月就任)、会長(81年6月就任)を務めた。五男・六郎は、洋画家で大理石モザイク壁画も手掛け日本近代洋画の革新に重要な役割を果たした。次女・孝子は、十六銀行の第4代頭取を務めた桑原善吉に嫁いだ。
(中略)
宗太郎の三男・友吉の孫・徳太郎は、岐阜天文台の副理事長や愛知淑徳短大の教授を務め世界一の精度を誇る「矢橋式日時計」を考案した。……」(岐阜新聞社2013年8月20日[1])
出典
[編集]- ^ a b ぎふ財界をけん引してきた古今のリーダーたち 千紫万紅 ぎふ財界人列伝 矢橋家の人々 漢詩人から起業家まで 矢橋編(1)|岐阜新聞社、2013年8月20日
- ^ a b c 関ケ原の機器メーカー、敷地にアートな「人間村」岐阜|…〈矢橋家〉 平安時代の嵯峨源氏を祖とし、江戸初期に滋賀県から大垣・赤坂に移り住み、幕末ごろから…|朝日新聞 DIGITAL 2022年5月閲覧
- ^ a b 光源氏のモデル~源融公ゆかりの寺~淀殿も眠る【大阪・梅田】太融寺 2022年5月閲覧
- ^ a b …棲霞寺は嵯峨天皇の第12皇子、左大臣源融(とおる)(822―895)…|清涼寺 コトバンク 2022年5月閲覧
- ^ a b 日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース 2024年4月閲覧
- ^ 註5) 矢橋徳次郎 (1858〜1927)
- ^ 神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家 (岐阜県の三(人員十名通計十八名))
- ^ 画像表示: 矢橋徳次郎 (第4版) - 『人事興信録』データベース
- ^ 矢橋家
- ^ 系譜 (「註釈一覧 3) 矢橋家」)
- ^ 矢橋家(矢橋大理石社長・矢橋修太郎の家系図)
- ^ 嵯峨源氏 コトバンク 2022年5月閲覧
- ^ 中埜半左衛門家文書目録 解題(出典 中埜酢店刊『七人の又左衛門』)3頁(43頁) 2021年8月閲覧
- ^ 桑原邸 岐阜県公式ホームページ
- ^ ■矢橋家|美濃赤坂宿 2007.04.25.