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真鍋貞成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
真鍋貞成
時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 永禄11年(1568年
死没 明暦2年10月30日1656年12月15日
別名 通称:次郎、五郎右衛門
斎号:真入斎
官位 主馬太夫(官途名
幕府 江戸幕府
主君 織田信長豊臣秀吉秀頼福島正則徳川頼宣
安芸広島藩紀州藩
氏族 真鍋氏
父母 父:真鍋貞友
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真鍋 貞成(まなべ さだなり)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将通称は次郎、五郎右衛門。官途名は主馬太夫。斎号を真入斎。

生涯

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永禄11年(1568年)、真鍋貞友(真鍋七五三兵衛)の子として生まれたとされる。天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦い織田軍に属して毛利水軍と戦った父・貞友が戦死したため、叔父の豊後守の後見を受けて貞成が家督を継ぎ、家を保つ。

真鍋氏和泉国淡輪の在地土豪で、500程の水軍衆を率いたとされる。治めていた淡輪の地が雑賀衆の勢力圏と近かったため、永禄年間に、同国内の大津織田信長の命で移住させられた。はじめは和泉国を担当した佐久間信盛や後任の蜂屋頼隆に属したと思われ、天正10年(1582年)の武田討伐にも従軍している。信長の死後は羽柴秀吉に属し、その配下の中村氏蜂須賀氏堀氏戸田氏福島氏などに3000石~4000石程度の禄で仕えた。天正12年(1584年)の秀吉による紀州征伐では雑賀衆に属した淡路国菅達長の水軍を打ち破っている。

文禄・慶長の役関ヶ原の戦いにも従軍、関ヶ原では豊臣家の直臣として伊予国に3500石の知行を受けていたため、おそらく西軍に属して一時没落するも、翌年に関ヶ原の戦功で大幅加増された福島正則に招かれ4000石の重臣として仕えた。元和5年(1619年)に福島正則が改易されると貞成は浪人し、細川忠興に1万石で仕官要請を受けるが、これを固辞している。また、この間に広島のキリシタン13名がローマ法王に宛てた手紙に署名しているので、熱心なキリシタンであったと推測される。

後に、徳川秀忠の命で同じ福島旧臣の大崎長行村上通清来島通総の弟)らと共に召抱えられ、紀州藩主・徳川頼宣の家臣となった。明暦2年(1656年)に89歳で死去。

参考文献

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