真木則道
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(真木要人から転送)
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 文政11年(1828年) |
死没 | 明治元年11月9日(1868年12月22日) |
改名 | 豊之助、則道 |
別名 | 蔵太(通称) |
戒名 | 心情院堅譽善質則道居士 |
墓所 | 長野県小諸市荒町の光岳寺 |
主君 | 牧野康哉、康済 |
藩 | 信濃小諸藩 |
氏族 | 真木氏 |
真木 則道(まき のりみち)は、江戸時代後期の信濃国小諸藩の在所家老。小諸藩家老連綿の家格・真木権左衛門家の当主。三河国牛久保城寄騎であった真木越中守定善・真木善兵衛の末裔。幼名は豊之助。名を則道。元服後から家老職となるまでは、蔵太と通称していた。なお曾祖父も要人を称した。正式な名乗りは、真木要人橘之則道。
概要
[編集]小諸藩主牧野氏の中小姓、用人加判を経て家老職となる。
しかし明治元年(1868年)11月9日に小諸騒動の犠牲者となり斬首刑を受ける。家族は城下を追放となり領内の正眼院にお預けとなった。真木要人と不仲であった同藩家老・加藤六郎兵衛成美が、新政府巡察使の内意であるとして、斬首を伝えたものである。このため小諸藩主牧野家に、戊辰戦争・北越戦争で官軍と交戦して敗れた越後長岡藩主牧野家の家臣・脱走者を匿ったことについて、罪が及ばなかった。
河井継之助伝(象山社)に、性格は温厚で人望が厚かったとの記述がある。
葬地など
[編集]戒名は心情院堅譽善質則道居士。
菩提寺は長野県小諸市荒町の光岳寺。葬地は小諸市乙(小諸市古城二丁目南側)。
藩主牧野氏、家老牧野氏、及び家老真木氏は小諸入封以来、在所では泰安寺の檀家であったが、明治時代に同寺が廃止されたので揃って光岳寺に移籍した。