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相馬勝夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

相馬 勝夫(そうま かつお、1904年11月26日[1][2][3]-1983年1月31日)は、専修大学理事長、専修大学総長。専修大学創立者の相馬永胤の孫。経済学博士。専門は保険論岡山県岡山市出身

来歴

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1924年東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。1930年(昭和5年)東京商科大学(現一橋大学)卒業後、専修大学講師[4]。 1932年東京商科大学旧制大学院修了。1938年専修大学教授。その後、学生部長・就職指導部長・を歴任。1955年商経学部長。1957年体育部長。1961年経営研究所長[5]。1961年専修大学にて論題「新価保険」で経済学博士を受く[6]1961年(昭和36年)専修大学第10代学長。1968年(昭和43年)専修大学美唄農工短期大学開学にあたり、専修大学学長と同短期大学の初代学長を兼任(1977年まで)。専修大学の学長在任中に商学部文学部経営学部を新設、商経学部を経済学部に改称した[7]。また、専修大学大学院の拡充も行い、経済学研究科の拡充、文学研究科(国文学専攻、英文学専攻、哲学専攻)、法学研究科(公法学専攻)、経営学研究科、商学研究科の修士課程および博士課程を設置した。

1976年(昭和51年)専修大学名誉教授。専修大学第7代総長[8]

1983年(昭和58年)死去、正四位[9]

母校である一橋大学および一橋大学大学院、横浜国立大学(当時横浜高等商業学校)、明治大学東洋大学等で非常勤講師も務めた。文部省大学設置審議会委員、日本私立大学連盟常務理事や、日本保険学会の理事、顧問、評議員を歴任した。関東学生陸上競技連盟(関東陸連)の会長を務めたこともある。また、同連盟への寄贈による400m優勝杯は「相馬杯」と言う。

エピソード

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  • 出生時は石川姓を名乗るも、父親が妻方の相馬氏の婿養子となったため、勝夫も相馬姓を名乗る[10]
  • 1938年より専修大学の陸上競技部長を逝去するまで務めた[11]。また、箱根駅伝では、選手に車で伴走するほどの熱のいれようであったという[12]
  • 1973年私財の一部を投じて専修大学美唄農工短期大学に相馬記念館を建てる[13]

受賞歴

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著書

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  • 『保険契約法通論――保険取引の準則』(栗田書店、昭和19年)
  • 『保険講義要領――保険六講』(邦光書房、1963年)
  • 『我苦鳥の歌』(専修大学出版局、1975年)
  • (共著)『経営と労働の法理』(専修大学出版局、1975年)

関連項目

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脚注

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  1. ^ 専修大学広報課発行『ニュース専修』第35号(昭和46年12月15日発行)1面の「校友会 秋季総会開く」という記事によると、この総会が行われた昭和46年(1971年)11月26日当日は67回目の誕生日だった、という旨の記載がある。
  2. ^ 著書『我苦鳥の歌』(専修大学出版局、1975年)の奥付にある「著者略歴」では、「明治37年11月」に生まれた旨の記載がある
  3. ^ 専修大学広報課発行『ニュース専修』第159号(昭和58年2月18日発行)2面の「相馬総長 大学を愛し、学生を愛し 教学の充実に情熱」によると「明治三十七年十一月二十六日・・・生まれた」とある。
  4. ^ 相馬勝夫元総長が揮毫 ― 「瑞雲」
  5. ^ 以上につき『専修大学110年』1989.8.30 59頁
  6. ^ 博論データベース
  7. ^ 相馬勝夫先生胸像
  8. ^ 以上につき「相馬勝夫略歴」『現代保険学の諸問題 相馬勝夫博士古稀祝賀記念論文集』1978.9.30 824頁
  9. ^ 官報昭和58年本紙第16819号 12頁
  10. ^ 『回想相馬勝夫』1984.1.20 384頁
  11. ^ 『回想相馬勝夫』1984.1.20 434頁
  12. ^ 以上につき『専修大学110年』1989.8.30 59頁
  13. ^ 『回想相馬勝夫』1984.1.20 449頁。しかし後に廃校となったため、現在は廃墟化している。
  14. ^ 以上につき「相馬勝夫略歴」『現代保険学の諸問題 相馬勝夫博士古稀祝賀記念論文集』1978.9.30 825頁
その他の役職
先代
川島正次郎
学校法人専修大学総長
1976年 - 1983年
次代
森口忠造