相良頼泰 (権五郎)
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時代 | 室町時代 |
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生誕 | 生年不詳 |
死没 | 長享元年6月13日(1487年7月3日) |
別名 | 通称:権五郎 |
戒名 | 威風上虎 |
官位 | 左近将監 |
父母 | 父:相良長続、母:犬童兼長の娘 |
兄弟 | 頼金、頼幡(夭折)、女(上村直頼室)、為続、頼泰 |
子 | 長泰、長弘、娘(北原茂兼室) |
相良 頼泰(さがら よりやす)は、相良氏の第11代当主相良長続の四男。第12代当主相良為続の弟。多良木の地頭。官途は左近将監。子は長泰、長弘、娘(北原茂兼室)。北原兼親は外孫。
経歴
[編集]上相良氏の多良木兄弟の乱を鎮定した長続は、多良木村を第4子頼泰に与えた。しかし頼泰は讒言にあって文明3年(1471年)に兄為続に領地を召上げられた。文明16年(1484年)には勘気は解かれて返給され、多良木に入部して鍋城を居城とした。
兄が亡くなると、頼泰は甥の家督相続に不満を持ち、息子の長泰の器量が優れていると称して、世子を廃して我が子に相良氏を相続させようと、佐牟田上野、吉無田孫左衛門らと謀事を企てた。しかし、それが当の長毎の知るところとなり、長享元年6月、頼泰は成敗された。長泰は為続に従って八代にいたが、同じく誅された。ただし、最初の召し上げも讒言によるものであったことから、為続もしくはその周辺によって陥れられた可能性もある[1]。
末子長弘のみ幼いという理由で助命を許されたが、後年、孫にあたる治頼がやはり反乱を起こして追放されている。
脚注
[編集]- ^ 柳田快明「〈文安五年の政変〉前後の相良氏支配と球磨郡地域支配」稲葉継陽・小川弘和編『中世相良氏の展開と地域社会』戎光祥出版、2020年、P195-200.
参考文献
[編集]- 熊本県教育会球磨郡教育支会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 球磨郡誌』熊本県教育会球磨郡教育支会、1941年、1254-1255頁 。