相良頼徳
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相良頼徳像(相良神社蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 | 安永3年5月16日(1774年6月24日) |
死没 | 安政3年10月1日(1856年10月29日) |
改名 | 英次郎(幼名)、頼徳 |
別名 | 武之進、左京、島入、繊月 |
戒名 | 寂淳院殿繊月雅遊大居士 |
墓所 | 熊本県人吉市の傳法山願成寺 |
官位 | 従五位下、志摩守、紀伊守、対馬守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 肥後人吉藩主 |
氏族 | 相良氏 |
父母 | 父:相良長寛、母:浜崎名美恵 |
兄弟 | 於愛、頼徳、義休、頼匡、於登那、於慶、大島義徳、於盈、万江頼順、於基、戸川達義、於盛 |
妻 | 松平頼謙の次女・於津 |
子 | 於蓮、於幸、頼之、於雅、於益、頼由、頼直、万江頼保、於葉、於源 |
相良 頼徳(さがら よりのり)は、肥後国人吉藩の第12代藩主。
生涯
[編集]安永3年(1774年)5月16日、第11代藩主・相良長寛の長男(庶長子)として生まれる。はじめ世子は嫡子(正室の子で次男)の義休と決まっていたが、義休は寛政4年(1792年)9月25日に江戸にて乱心し、樅木九郎兵衛を斬殺したため(樅木は事件の2日後に死去)、寛政5年(1793年)1月28日に廃嫡され(系図には病のためと記されている)、代わって頼徳が世子に指名された。寛政6年(1794年)12月16日に従五位下、志摩守に叙任する。享和2年(1802年)2月5日、父の隠居により家督を継ぐ。
藩政においては、藩財政再建を目指して田代政典を家老に登用し、文化4年(1807年)に五人組制度の再建、文化8年(1811年)には検地による年貢増収、そのほかにも新田開発、専売などを行なった。
文政元年(1818年)10月6日、長男の頼之に家督を譲って隠居し、安政3年(1856年)10月1日に死去した。享年83。
系譜
[編集]父母
- 相良長寛(父)
- 浜崎名美恵、観智院(母) - 側室
正室
- 於津、銉 - 松平頼謙の次女
子女