相良長誠
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相良 長誠(さがら ながとも/ながまさ[1]、天正6年4月3日(1578年5月19日) - 慶長15年6月23日(1610年8月11日))は、相良氏の第18代当主・相良義陽の三男。母親は豊永長英の娘。幼名は藤千代。通称は佐三郎。
生涯
[編集]19代当主・忠房、20代当主・頼房の同腹の弟として生まれる。天正13年(1585年)忠房が病死し、島津氏の人質となっていた頼房が家督を継ぐことになったため、頼房に代わり薩摩国出水に半年ほど人質として過ごした。天正15年(1587年)4月、豊臣秀吉が九州征伐で八代まで進軍した折、島津氏を救うべく日向国へ出征していた頼房に代わり、深水長智に伴われて秀吉へ降伏すべく謁見している。
その後は、中城に居室を構えて移り住み、家老の深水頼蔵の娘と婚姻した。しかし、頼蔵が相良家を出奔したために離別することとなる。長誠は悲嘆にくれ、その後に重い病を発症した。ようやくそれが癒えた頃、伯耆頼綱の娘を後室として迎えたが、病気が再発したことで再び離縁している(離縁した両方ともが、家老の犬童頼兄の催促によるもの)。それからは長い養生生活を強いられ、さらには膈(胃の周辺)の病を発症したことで衰弱し、慶長15年に中城にて病没、永国寺に葬られた。法名は光屋清容。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 池田こういち『肥後相良一族』新人物往来社、2005年。ISBN 4404032536。 では「ながとも」、人吉市にある「人吉城歴史館」内の説明文等では「ながまさ」としている。
参考文献
[編集]- 『南藤蔓綿録』