相生芳藏
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(相生芳蔵から転送)
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基礎情報 | ||||
四股名 | 相生 芳藏 | |||
本名 | 永田 芳造 | |||
生年月日 | 1862年 | |||
没年月日 | 1888年3月16日(満27歳没) | |||
出身 | 伯耆国八橋郡(現:鳥取県東伯郡) | |||
身長 | 不明 | |||
体重 | 不明 | |||
所属部屋 | 華の峰部屋(京都相撲)→玉ノ井部屋 | |||
得意技 | 寄り、押し | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 西前頭8枚目 | |||
生涯戦歴 | 17勝9敗6分2預1休(4場所) | |||
幕内戦歴 | 2勝3敗4分1休(1場所) | |||
データ | ||||
初土俵 | 1886年5月場所 | |||
入幕 | 1888年1月場所 | |||
引退 | 1888年1月場所 | |||
備考 | ||||
2019年7月14日現在 |
相生 芳藏(あいおい よしぞう、1862年 - 1888年3月16日)は、伯耆国八橋郡(現:鳥取県東伯郡)出身の元大相撲力士。本名は永田 芳造(ながた よしぞう)。
経歴
[編集]1862年に伯耆国八橋郡(現:鳥取県東伯郡)で生まれる[1][2]。当初は京都相撲に加入しており、華の峰部屋に所属していたと伝わる。1886年5月場所において二段目(現:幕下)で初土俵を踏むと5勝2敗1分の好成績を残した。それ以降の昇進が早く、1887年1月場所では西十両4枚目に位置付けされた。1888年1月場所で新入幕を果たすと西前頭8枚目まで番付を上げ、同場所8日目(2月5日)の対嵐山捨吉戦では、取組中に嵐山の廻しが外れる珍事が発生した(明治時代以降では史上初の出来事[3])。
突き・押しを得意としており[4]、若さもあって将来を嘱望されたが、同場所終了後に原因不明の熱病に襲われ、千秋楽から僅か1ヶ月後の同年3月16日に東京・赤十字病院で死去、27歳没。
主な成績
[編集]- 通算成績:17勝9敗6分2預1休 勝率.654
- 幕内成績:2勝3敗4分1休 勝率.400
- 現役在位:4場所
- 幕内在位:1場所
場所別成績
[編集]春場所 | 夏場所 | |||||
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1886年 (明治19年) |
x | 東十両10枚目 5–2 (1引分) |
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1887年 (明治20年) |
西十両4枚目 5–1 (1引分) |
西十両2枚目 5–3 (2預) |
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1888年 (明治21年) |
西前頭8枚目 2–3–1 (4引分) |
引退 ––[5] |
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各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
改名歴
[編集]- 相生 芳藏(あいおい よしぞう)1886年5月場所 - 1888年1月場所
脚注
[編集]- ^ 相生 芳藏 力士情報
- ^ 北条町歴史民俗資料館 編『因伯の大相撲力士たち』出版社、2001年。 NCID BA54745267。
- ^ マワシが外れて「チン」出し珍場面ブログ(2010年1月16日記事)
- ^ 入幕順幕内力士一行紹介・十九(相撲評論家の頁)
- ^ 3月16日に死去