相浦多三郎
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相浦 多三郎(あいのうら たさぶろう、1862年6月19日(文久2年5月22日[1])- 1942年(昭和17年)6月16日[2])は、明治期の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。従四位、勲三等、功四級[1]。
経歴
[編集]佐賀藩士・相浦蕃慎の次男として生まれる。兄に海軍中将相浦紀道がいる[1]。藩校(弘道館)を経て、1883年(明治16年)12月25日に陸軍士官学校(フランス式旧士官学校)を卒業(旧6期、騎兵)し[3]、同日、陸軍騎兵少尉に任官[1][3]。
1901年(明治34年)5月に騎兵第12連隊長に就任[4]。1904年(明治37年)5月に騎兵大佐となる[4]。日露戦争に出征し、鴨緑江会戦、遼陽会戦、沙河会戦、奉天会戦などに参戦した[2]。1908年(明治41年)12月に軍馬補充部白河部長に就任後、1910年(明治43年)6月に陸軍少将に昇進と同時に予備役に編入された[2][4]。
栄典
[編集]親族
[編集]長女・ツヤは警視総監や貴族院勅選議員などを務めた宮田光雄、次女・ユキは南洋庁長官の横田郷助に嫁いだ[1]。
系譜
[編集]先祖は平安時代末期、松浦郡相神浦(現在の佐世保市相浦)から佐賀多久に移住した松浦党の相神浦(あいこうのうら)氏。以後、姓を相神浦から相浦と名乗る[要出典]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。