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益田広兼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
益田広兼
時代 安土桃山時代
生誕 天正4年(1576年
死没 文禄4年8月11日1595年9月14日
改名 久太郎(幼名)→益田広兼
別名 七兵衛(通称
戒名 慈雲院月渓宗林
墓所 黄梅院京都府京都市北区紫野)
主君 毛利輝元
氏族 益田氏
父母 父:益田元祥 母:吉川元春の娘
兄弟 広兼景祥家澄就之就景
正室:珠光院吉見広頼の娘)
元堯
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益田 広兼(ますだ ひろかね)は、安土桃山時代の武将。毛利氏の家臣。石見国国人益田氏の当主である益田元祥の嫡子。母は毛利元就の次男・吉川元春の娘。正室は吉見広頼の娘。子は益田元堯幼名は久太郎。通称は七兵衛。

生涯

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天正4年(1576年毛利氏家臣・益田元祥の長男として生まれる。天正17年(1589年)2月、母の従兄弟にあたる毛利輝元の加冠で元服し、毛利氏の祖である大江広元の「広」の字を与えられ広兼と名乗った。吉見広頼の娘・珠光院を娶り、嫡男元堯を儲けたが、文禄4年(1595年疱瘡に罹り、同年8月11日に死去した。享年20。法名は慈雲院月渓宗林。京都の黄梅院に葬られた。

父に先立って死去したため、家督は嫡男の元堯が元和6年(1620年)に嫡孫承祖した。正室の珠光院は慶長11年(1606年)没している。

参考文献

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