益田広兼
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時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 天正4年(1576年) |
死没 | 文禄4年8月11日(1595年9月14日) |
改名 | 久太郎(幼名)→益田広兼 |
別名 | 七兵衛(通称) |
戒名 | 慈雲院月渓宗林 |
墓所 | 黄梅院(京都府京都市北区紫野) |
主君 | 毛利輝元 |
氏族 | 益田氏 |
父母 | 父:益田元祥 母:吉川元春の娘 |
兄弟 | 広兼、景祥、家澄、就之、就景 |
妻 | 正室:珠光院(吉見広頼の娘) |
子 | 元堯 |
益田 広兼(ますだ ひろかね)は、安土桃山時代の武将。毛利氏の家臣。石見国の国人・益田氏の当主である益田元祥の嫡子。母は毛利元就の次男・吉川元春の娘。正室は吉見広頼の娘。子は益田元堯。幼名は久太郎。通称は七兵衛。
生涯
[編集]天正4年(1576年)毛利氏家臣・益田元祥の長男として生まれる。天正17年(1589年)2月、母の従兄弟にあたる毛利輝元の加冠で元服し、毛利氏の祖である大江広元の「広」の字を与えられ広兼と名乗った。吉見広頼の娘・珠光院を娶り、嫡男元堯を儲けたが、文禄4年(1595年)疱瘡に罹り、同年8月11日に死去した。享年20。法名は慈雲院月渓宗林。京都の黄梅院に葬られた。
父に先立って死去したため、家督は嫡男の元堯が元和6年(1620年)に嫡孫承祖した。正室の珠光院は慶長11年(1606年)没している。