コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

目黒雅叙園

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
百段階段から転送)
株式会社目黒雅叙園
K.K. MEGURO GAJOEN
目黒雅叙園
(2018年1月21日撮影)
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
153-0064
東京都目黒区下目黒1丁目8番1号
設立 2003年(平成15年)5月
業種 サービス業
法人番号 3013201010326 ウィキデータを編集
事業内容 ホテル・結婚式場の経営
代表者 深澤正生(代表取締役社長
資本金 1億円
純利益 7億8,900万円
(2024年3月期)[1]
総資産 27億8,600万円
(2024年3月期)[1]
決算期 12月31日
主要株主 (株)ワタベウェディング 100%
外部リンク www.megurogajoen.co.jp
テンプレートを表示

目黒雅叙園(めぐろがじょえん)とは、東京都目黒区にある、結婚式場ホテルレストランなどの複合施設である。運営法人の株式会社目黒雅叙園(K.K. Meguro Gajoen)はワタベウェディング完全子会社。土地施設全体は、外資系ファンドのラサール・インベストメント・マネージメントが設立した特別目的会社が所有している。2017年4月1日、ホテル雅叙園東京に施設名称を変更した[2]

沿革

[編集]
木造館時代当時の目黒雅叙園

石川県羽咋郡下甘田村出身の創業者・細川力蔵が、1928年(昭和3年)に東京・芝浦にある自邸を改築し、純日本式の料亭「芝浦雅叙園」を経営していたが、東京府荏原郡目黒町大字下目黒字坂下耕地一帯および岩永省一[注 1]として記録された建造物を入手し、増改築を進めて1931年(昭和6年)に目黒に「目黒雅叙園」と名付けた料亭を開業した[3]。これは、日本国内最初の総合結婚式場[要出典]でもあった。

本格的な北京料理日本料理を供する料亭だったが、メニューに価格を入れるなど当時としては斬新なアイディアで軍人政治家華族層以外の一般市民の料亭利用者を増やした。また、中華料理の店で一般に見られる円形のターンテーブル(二層構造の円形テーブル上部に料理を載せ回転させることで取りやすくするもの)も1931年(昭和6年)細川力蔵の考案[4]で、その後に中国大陸へ伝わったもの、という説もある[注 2]

1945年(昭和20年)8月15日正午、大西瀧治郎中将は終戦玉音放送を軍令部の中庭で聞いた後、当時、海軍病院の分室だったこの雅叙園を訪れて同期生の多田海軍次官を見舞った。その深夜、渋谷区南平台の官舎に帰り、翌16日に特攻作戦の責を取るとして遺書[注 3]を残して14時45分に割腹自決を遂げた。

木造(旧館)の目黒雅叙園は太宰治の小説『佳日』にも登場する。絢爛たる装飾を施された園内の様子は「昭和の竜宮城」とも呼ばれ、ケヤキの板材で作られた園内唯一の木造建築「百段階段」(実際は99段)とその階段沿いに作られた7つの座敷棟宴会場の内の4つは、2009年(平成21年)3月16日に東京都指定の有形文化財(建造物)に指定された[5]。「十畝(じっぽ)の間」、「漁樵(ぎょしょう)の間」、「草丘(そうきゅう)の間」、「静水(せいすい)の間」、「星光(せいこう)の間」、「清方(きよかた)の間」、「頂上(ちょうじょう)の間」、計7つの中から4棟の座敷棟が指定された。映画「千と千尋の神隠し」の湯屋のモデルにもなったもので、樹齢百年の床柱や天井、壁面、ガラス窓にいたるまで贅を凝らし、昭和初期における芸術家達の求めた美と大工の高度な伝統技術が融合した素晴らしい装飾となっている。希望者は申請すれば観覧が可能となっており、イベントや宿泊、食事とのセットで公開されている。2010年(平成22年)1月29日から3月3日までの期間、初めて「百段雛(ひな)まつり」という豪華絢爛な催しが行われた(第一回)。日本全国にある雛文化の中から、非常に贅を尽くしたものが多いといわれる山形の雛を中心に、上記7つの宴会場で飾られることとなり盛況を博した。

昭和初期に建設された木造の旧館においては、敗戦直前の昭和19年頃まで、戦時下の国民が苦しい時局や贅沢禁止令下にもかかわらず、大勢の著名な画家や彫刻家、塗師が出入りし、あるいは泊り込み、部屋ごとに女中と書生付きで数年にわたり内装や絵画作品を完成させたという。金泥の制限で時局の悪化を知ったという画家の逸話もある。その結果、文展やかつて帝展に出品された数多くの作品を所有し館内を飾った。その数は数千点にもおよぶ膨大なコレクションであり、旧館取り壊し時に額装保存された天井画や欄間絵とともに、新館に併設された美術館(目黒雅叙園美術館)で定期的に観覧に供したが、美術館は2002年(平成14年)に閉鎖されて、多くの作品群は散逸し個々の所在は不明である。

現在の敷地は1991年11月に、総工費850億円で大リニューアルしたものである。旧館の老朽化と、隣接する目黒川の水害対策の拡張工事が重なったことから、検討の末、膨大な美術品を修復して移築復元する方法がとられた。設計・施工は日建設計および鹿島建設による。

創業者・細川力蔵亡き後は、合資会社雅叙園として同族による経営が行われてきたが、運営会社であった雅秀エンタープライズは2002年(平成14年)に経営破綻し、外資ファンドリップルウッド・ホールディングスに買収された。雅秀エンタープライズは、現在の株式会社目黒雅叙園として再建され、2004年(平成16年)5月にはワタベウェディングがその株式の66%を取得して傘下におさめた[6]。ワタベウェディングは2005年(平成17年)1月に残り34%も取得(合計100%)、目黒雅叙園を完全子会社とした[6]2007年(平成19年)には経営破綻した福岡山の上ホテル福岡県福岡市中央区)の再建スポンサーとなり、傘下におさめている。

2014年8月、森トラストが目黒雅叙園及びアルコタワーなど施設のすべてを、所有するローンスターから買収した後[7][8]2015年1月、中国政府系ファンドの中国投資有限責任公司(CIC)から資金提供[9][10][11]された米ファンドのラサール・インベストメント・マネージメント・インクが取得した[12][13][14]

2017年4月1日、ホテル雅叙園東京に施設名称を変更した[2]

創業者

[編集]

創業者の細川力蔵(1889~1945)は石川県下甘田村米浜(現・志賀町)の農家の六男として生まれ、大阪尋常小学校を10歳で終え、15歳で上京し神田の風呂屋で住み込みで働き始めた[15]。23歳で独立し、芝区一丁目で銭湯と瓦斯コークス販売を始めた[16]中野貫一の長男・忠太郎と知り合い、忠太郎は芝浦に来るたびに力蔵を風呂の三助として指名した。芝浦で土地払い下げがあることを力蔵から聞いた忠太郎は1919年に16万坪を450万円で購入した。力蔵はその謝礼として忠太郎から大金と当地の管理を任され、1920年に芝浦商事株式会社を設立して不動産業を始めた[15][17]。1922年には葉山の芝崎海岸に洋館、和館に部屋数約50室という宏大な別邸を建設[15][18]関東大震災の翌年、南浜町会(芝浦一丁目会)の会長に就任、1928年には芝浦の自宅を中華料理屋にし「芝浦雅叙園」として開業、1931年に目黒雅叙園を始めた[15]。芝浦花街三業組合の理事長となり、芝浦花柳界の見番(現・港区立伝統文化交流館)を建設。棟梁には、目黒雅叙園も手がけた酒井久五郎が当たった[19][20]。後妻の敏子は子爵東坊城徳長の二女(庶子)で、その弟妹に東坊城恭長入江たか子がいる[21]。長男の細川力(1923年生)は42歳で早世[18]。  

アルコタワー

[編集]
アルコタワー

アルコタワー」(Arco Tower)[22]および「アルコタワー・アネックス」(Arco Tower Annex)は、雅叙園の敷地内にある高層オフィスビルで、全面改装時に建築されたもの。高さ103m。

主な入居企業として、アマゾン・ジャパンなど外資系大企業の日本法人が多数挙げられる。かつてはウォルト・ディズニー・ジャパンマースジャパンポルシェ・ジャパンスクウェアなども入居していた。

目黒雅叙園とアルコタワー、同アネックスは同じ敷地内にあり住所も同じ(目黒区下目黒1丁目8番1号)なので注意。

雅叙園観光ホテル

[編集]
雅叙園観光ホテル(中央上、解体前)。手前の屋根は目黒雅叙園
  • 隣接していた雅叙園観光ホテルは元来目黒雅叙園の新館(洋館)であったが、1948年(昭和23年)興行師の松尾國三が経営に乗り出して雅叙園観光(現:東北雅叙園)株式会社が設立され、分離。合資会社雅叙園は地主として同ホテルとの関係を持っていたが、事実上目黒雅叙園と雅叙園観光ホテルは全く別物となった。
  • 松尾が雅叙園観光を設立して観光ホテルの経営に乗り出した背景には、二代目細川力蔵と初代未亡人との間で起こった細川家の相続争奪戦があった。二代目が松尾を頼り、松尾は二代目に加担。この際洋館の建物を譲り受けて、中華料理店であった同館を観光ホテルに大改装した。松尾の進出は二代目に対する後方支援でもあった。
  • 雅叙園観光はかつて、静岡県三島市に三島雅叙園ホテルを、横浜市戸塚区ホテルエンパイアを、神戸市葺合区(現在の中央区)にニューポートホテルをそれぞれ運営していた。三島雅叙園の建物は取り壊されマンションが建てられている。
  • 東証一部上場企業であり、松尾が経営していた日本ドリーム観光の姉妹会社であった。松尾没後に経営権争奪(コスモポリタン事件)が起こり、雅叙園観光と日本ドリーム観光は分離。雅叙園観光は結局その過程においてイトマン事件に巻き込まれ、1997年(平成9年)に倒産。経営していたホテルもすべて閉鎖され現存しない。
  • このイトマン事件に雅叙園観光が巻き込まれ大々的な報道の対象となったことは、目黒雅叙園にも少なからぬ風評被害を及ぼした。そのためか、雅叙園観光倒産時には、目黒雅叙園側が「当『目黒雅叙園』とは一切関係がありません」と異例の新聞広告を行っている。
  • 雅叙園観光ホテル跡地は目黒雅叙園の手に戻り、2012年春に完成したアルコタワー・アネックスのエントランス棟として整備された。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 岩永省一とその家族が住んでいたのは「岩永省一邸」として記録された建造物ではなく、広大な敷地を持つ別の建物でありこの屋敷地が目黒雅叙園と接していた(出典『岩永裕吉君』)。
  2. ^ しかし、同様の構造を有するターンテーブル自体は英語圏などでレイジースーザン英語表記:Lazy Susan)の名称で18世紀イギリスにすでに存在していたため、細川力蔵の発明や最初の考案ではない可能性がある。
  3. ^ ウィキクォート大西瀧治郎」の項目に遺書の全文あり。

出典

[編集]
  1. ^ a b 株式会社目黒雅叙園 第22期決算公告
  2. ^ a b 目黒雅叙園がリブランディング ホテル事業拡大、86年ぶりに名称変更”. 目黒経済新聞 (2017年3月3日). 2017年5月16日閲覧。
  3. ^ 岩永省一邸 - 国立科学博物館
  4. ^ 昭和6年1931年11月18日、目黒に目黒雅叙園を開園の頃に考案
  5. ^ 「目黒雅叙園百段階段」(東京都文化財情報データベース)
  6. ^ a b 会社沿革 - ワタベウェディング公式サイト、2012年4月28日閲覧
  7. ^ “森トラスト、目黒雅叙園買収を正式発表”. 日本経済新聞. (2014年8月29日). https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ29HBQ_Z20C14A8TJ2000/ 2014年9月6日閲覧。 
  8. ^ 目黒雅叙園等の土地・建物の取得について” (PDF). 森トラスト株式会社 (2014年8月29日). 2014年9月6日閲覧。
  9. ^ “森トラスト、雅叙園を5カ月で転売した舞台裏”. 東洋経済オンライン. (2015年3月22日). https://toyokeizai.net/articles/-/63490 2017年12月7日閲覧。 
  10. ^ “【売買】ラサールが目黒雅叙園を取得、中国CICの出資で”. 日経BP. (2015年2月12日). http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/nfm/news/20150209/691429/ 2017年12月7日閲覧。 
  11. ^ “中国のCIC、森トラストから目黒雅叙園を取得=アドバイザー”. ロイター. (2015年2月12日). https://jp.reuters.com/article/cic-moritrust-idJPKBN0LG1BM20150212 2017年12月7日閲覧。 
  12. ^ “森トラスト、米ファンドに目黒雅叙園を売却”. 日本経済新聞. (2015年2月9日). https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ09IOG_Z00C15A2TJ1000/ 2015年2月9日閲覧。 
  13. ^ 目黒雅叙園等の土地・建物の譲渡に関するお知らせ” (PDF). 森トラスト株式会社 (2015年2月9日). 2015年2月9日閲覧。
  14. ^ ラサール、複合施設・目黒雅叙園を取得” (PDF). ラサール不動産投資顧問株式会社 (2015年2月9日). 2015年2月10日閲覧。
  15. ^ a b c d ふるさと志賀郷土の先人たち 細川力蔵志賀町公式動画チャンネル、2021/06/01
  16. ^ 細川力蔵『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  17. ^ 目黒雅叙園(昭和6年開業)の創業者、細川力蔵について調べているレファレンス協同データベース、2009年11月22日
  18. ^ a b 『そして、風が走り抜けて行った - ジャズピアニスト・守安祥太郎の生涯』植田紗加栄、講談社、1997年、p117-121
  19. ^ 旧協働会館港区立郷土歴史館
  20. ^ 港区立伝統文化交流館公益財団法人港区スポーツふれあい文化健康財団
  21. ^ 東坊城徳長『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  22. ^ アルコタワー

舞台となった作品

[編集]
宝石強盗グループに襲撃される大富豪の屋敷という設定でロケ撮影が行われた。旧木造館時代の各所や百段階段での銃撃戦、手榴弾による爆破シーンが撮影されている。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]