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白石稲荷山古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
白石稲荷山古墳

墳丘(左に前方部、右に後円部)
所属 白石古墳群
所在地 群馬県藤岡市白石(字稲荷原)
(毛野国白石丘陵公園内)
位置 北緯36度15分15.40秒 東経139度2分23.90秒 / 北緯36.2542778度 東経139.0399722度 / 36.2542778; 139.0399722座標: 北緯36度15分15.40秒 東経139度2分23.90秒 / 北緯36.2542778度 東経139.0399722度 / 36.2542778; 139.0399722
形状 前方後円墳
規模 墳丘長155m
高さ13.5m(後円部)
埋葬施設 後円部:竪穴式礫槨2基
出土品 銅鏡・石製品など副葬品多数・埴輪
築造時期 5世紀初頭
史跡 国の史跡「白石稲荷山古墳」
地図
白石 稲荷山古墳の位置(群馬県内)
白石 稲荷山古墳
白石
稲荷山古墳
地図
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白石稲荷山古墳(しろいしいなりやまこふん)は、群馬県藤岡市白石にある古墳。形状は前方後円墳白石古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている。

概要

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  • 全長155メートル[1]
  • 後円部径92メートル、高さ13.5メートル
  • 前方部幅86メートル、高さ8.5メートル

鏑川鮎川の合流地点の南方1.5キロメートルの丘陵性台地上、標高120メートルの地点に立地する。直ぐ北には十二天塚・北古墳が並ぶ。

周溝は北と南で台地を切断する形で確認され、西側は自然の谷を利用し、東側は崖となっている。墳丘は基本的には三段築成であり、くびれ部は狭く途中から(バチ)形に開く。葺石は後円部では2段目と3段目に、前方部では3段目で全周するものと思われる。埴輪列は円筒埴輪と朝顔形円筒埴輪が検出され、後円部では3段に巡らされている。前方部では基壇と3段目に確認されているが部分的である。

1933年(昭和8年)、後藤守一らに調査され、1985・86年(昭和60・61年)に藤岡市教育委員会により範囲確認調査が行われている。

1993年(平成5年)に国の史跡に指定。2009年(平成21年)には十二天塚古墳、十二天塚北古墳が追加指定された。

現在周辺を古墳公園として整備する構想が持ち上がっている[2]

2018年(平成30年)4月から2019年(令和元年)5月にかけて、群馬県立歴史博物館早稲田大学により地中レーダー調査が行われ、前方部に新たな埋葬施設があることが判明したほか、140メートルと考えられていた墳丘長が155メートルであると判明し、築造年代も従来の5世紀前半から、少なくとも5世紀初頭にまでさかのぼることが確実となった。

2019年(令和元年)10月、台風19号の大雨の影響で、十二天塚北古墳の北東墳丘が5m×8mの範囲にわたり崩落した。

埋葬施設

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後円部墳頂

1933年(昭和8年)に行われた調査で後円部墳頂東端・西端から主体部が1基ずつ検出された。ともに竪穴式礫郭で、砂利を敷き、壁に河原石を積み上げて粘土で蓋をした構造をしている。

東槨
主要部分は破壊されていた。長さ8.2メートル、幅0.9-0.6メートル。内行花文鏡1、滑石石枕1、扁平柱状の石枕?1、滑石製模造品(案1、1、坩2、1、1、18、刀子114)、鉄刀2、碧玉製管玉9、碧玉製勾玉1、ガラス製切小玉2、ガラス製管玉1、碧玉製算盤玉125出土。また埋葬施設の上から家形埴輪5出土。
西槨
長さ5.3メートル、幅0.4メートル。四獣鏡1、滑石製石枕1、滑石製模造品(案1、杵1、坩2、釧1、下駄1対、剣17、刀子113)、滑石製勾玉115、滑石製臼玉100余、鉄刀4、銅製刀子把1、碧玉製勾玉3、碧玉製管玉48、ガラス製小玉1000、櫛4、鉄器残片出土。また埋葬施設の上から家形埴輪3、短甲形埴輪1出土。

埴輪などの出土品は東京国立博物館所蔵となっている。

前方部埋葬施設 未調査のため不明。

文化財

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国の史跡

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  • 白石稲荷山古墳 - 1993年(平成5年)11月30日指定、2009年(平成21年)7月23日に史跡範囲の追加指定[3]

脚注

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  1. ^ 大塚初重小林三郎・熊野正也編『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年、58-59頁。
  2. ^ 毛野国白石丘陵公園史跡整備 - 藤岡市
  3. ^ 白石稲荷山古墳 - 国指定文化財等データベース(文化庁

関連文献

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(記事執筆に使用していない関連文献)

関連項目

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外部リンク

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