白江氏
白江氏は、菅原道真公に仕えた「白太夫」こと渡會春彦を祖とする家系とされ、現在は56代目となる白江秀知氏が綱敷天神社の禰宜を務めています。綱敷天神社は嵯峨天皇を主祭神とする全国で唯一の神社であり、大阪市北区では「梅田キタの氏神さま」として親しまれています[1]。
1.渡會氏の起源
[編集]渡會氏は、伊勢神宮に奉仕していた神主一族であり、古くから宮川周辺(現在の三重県渡会郡)に居住していたと伝えられています。渡會氏は主に伊勢神宮外宮の豊受皇大御神に奉仕しており、その豊受皇大御神は雄略天皇の時代に丹後の地から勧請されたとされます。それ以前には、渡會氏が自身の氏神を祀っていたのではないかという説もあります[1]。
2.渡會春彦氏
[編集]渡會春彦は伊勢神宮外宮の神官で、禰宜(ねぎ)という職務を務めていました。頭髪が白かったことから「白太夫」と呼ばれていたと伝えられています[1]。
3.渡會春彦氏と菅原道真
[編集]菅原道真公の父である菅原是善公は、長男と次男を幼くして失い、世継ぎに恵まれませんでした。そのため、侍臣で詩匠と称され、妻方の義理の父親でもある島田忠臣が伊勢神宮外宮の渡會春彦を介して祈願し、その結果として道真公が誕生したとされています。この縁から、渡會春彦は後に道真公のもり役を務めることになりました[1]。
4.渡會春彦氏と綱敷天神社
[編集]渡會春彦は、綱敷天神社を祀る白江家の始祖とされています。菅原道真公が大宰府に左遷される途中、同社に立ち寄った際、春彦以下の一族に「これ以上の同行は苦難を伴うため、ここに留まるべし」と告げ、一族に「白江」の姓を与えました。この命に従い、渡會春彦の一族は当地に留まり、綱敷天神社の神職としてその歴史を繋いでいきました[1]。
その後、渡會春彦は道真公と共に筑紫の大宰府へ赴き、道真公の薨去後、遺物を土佐国潮江村の菅原高視のもとに届ける役目を果たしましたが、延喜五年(905年)正月九日、途中の岩崎の津(現在の高知県長岡郡)で79歳で亡くなったと伝えられています(他の史料では延喜四年(904年)二月二十五日、83歳没と記されています[1])。
5.白江氏の姓の由来
[編集]「白江」という姓は、白太夫の「白」と、大川周辺の古い地名「新羅江(しらぎえ)」に由来するとされています。新羅江は古代の国際交流を背景にした地名であり、そこから「シンラエ→シラエ→白江」と変化した可能性が指摘されています。また、近世には綱敷天神社の神職を務めた白江家が「白江宗家」と称されていたことから、この地が白江姓の発祥地であるとも考えられています[1]。
参照
[編集]https://tunashiki.sakura.ne.jp/yuisyo/gosaijin-wataraiharuhiko.html[1]
御神宝
[編集]『白江氏系図書』
https://tunashiki.sakura.ne.jp/shinpou/keizusyo.html[1]