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白南柱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

白南柱(ペク・ナムジュ、백남주, 1901年1月3日 - 1949年)は朝鮮咸鏡南道甲山郡(現:両江道)出身の宗教家混淫派の先駆者の一人[要出典]

1930年に平壌神学校を卒業、元山のマルタウィルソン女子神学校に赴任し、ギリシア語ヘブライ語ヨハネ福音書の講義を行い、ヨハネ福音書などを新たに翻訳した。スウェーデンの神秘思想家エマヌエル・スヴェーデンボリに傾倒し、当時の教会を批判する信仰復興運動に参加した。

1927年に元山監理教会で、教会員でマルタウィルソン女子神学校の元学生だった劉明花という女性が、イエスが自身に親臨内在している「親臨主」であるとして、「降神劇」を行ったが、白南柱が李龍道に劉明花を紹介して何度も降神劇を行い、1932年1月28日平壌老会により降神劇は異端とされた。1933年1月3日、白南柱、韓俊明、朴承傑の名前で『新たな生命の道』という宣言文を発表したが、これは歴史を旧約(第一時代)、新約(第二時代)、新たな生命(第三時代)と区分する等の内容で異端視された。同年6月3日「イエス教会」を開き、9月9日前後に付設修道院の「元山神学山」を開いた。10月2日李龍道が死亡すると、後任の代表に李浩彬が選ばれた。

その後、平安北道鉄山で「聖主」を自称する金聖道[1]を立てて「聖主教会」を開いたが、いわゆる「混淫事件」を起こして再び問題となった。さらに「再臨主によって東方の国が成り、まもなく日本は崩壊する」としたため日本の警察に金聖道が投獄され、3ヶ月後に解放された直後の1944年4月1日に死亡したため聖主教も没落する。

1946年に南へ渡り、春川師範学校公州師範学校で教職に就いている。[2]

脚注

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  1. ^ 統一教会の鄭錫天は金聖道の長男、鄭壽源は金聖道の孫
  2. ^ 네이트 한국학