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白井震四郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

白井 震四郎(しらい しんしろう、1911年明治44年)7月15日[1] - 1982年昭和57年)10月23日[2])は、日本の実業家

日本高周波鋼業元取締役会長。神戸製鋼所元常務取締役。日本発条・尼崎製釘所(現・アマテイ)元各取締役。鋼材倶楽部・日本鉄鋼輸出組合(現・日本鉄鋼連盟)各元理事。

来歴

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福島県会津若松市出身。衆議院議員を務めた白井新太郎の四男として生まれる[3][4]

祖父の白井五郎太夫は林安定とともに藩大砲隊頭を務め、鳥羽・伏見の戦いで討死した。なお父・新太郎の先妻は盛岡藩家老のち外交官の南部次郎(東政図)の次女・恵子、後妻は湯長谷藩の藩主家当主内藤政潔の叔母・董子である。また、兄(父・新太郎の養子)の白井龍一郎は加波山鉄道社長などを務めた実業家であり、龍一郎の妻は子爵山内豊健の姉で、幕末の土佐藩山内容堂の孫にあたる[5]。姉・美代子は鳥羽・伏見の戦いにおける幕府軍最高指揮官であった徳川慶喜の孫・徳川喜翰に嫁いだ。

1936年(昭和11年)慶應義塾大学を卒業し、1938年(昭和13年)神戸製鋼所に入社[1]

1947年(昭和22年)業務部第一購買課長となり、同鉄鋼課長、鉄鋼部販売部次長を経て、1953年(昭和28年)東京支社鉄鋼販売部次長に転じる[1]。その後、東京鉄鋼販売部長、本社鉄鋼販売部長を経て、1960年(昭和35年)取締役、1966年(昭和41年)12月常務に就任[1]1972年(昭和47年)11月、日本高周波鋼業副社長に就任し、1973年(昭和48年)5月社長、1981年(昭和56年)6月会長を歴任[2]

鉄鋼業界恒例のイベントである「三鬼杯争奪ゴルフ大会」の最中に突然倒れ、1982年(昭和57年)10月23日、心筋梗塞のため急逝した[2]。享年71[2]

人物

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趣味はビリヤード[1]。宗教は臨済宗[1]

家族

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脚注

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参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第25版』人事興信所、1969年。