畢聞慰
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畢 聞慰(ひつ ぶんい、469年 - 525年)は、北魏の官僚。字は子安。本貫は東平郡須昌県。
経歴
[編集]畢衆愛の子として生まれた。父の鉅平侯の爵位を嗣いだが、太和年間に伯に降格された。泰山郡太守に任じられ、入朝して尚書郎・兗州中正となり、威遠将軍の号を加えられた。徐州平東府長史として出向し、彭城国内史を兼ねた。永平年間、中散大夫に転じ、龍驤将軍の号を加えられた。512年(延昌元年)、清河国内史に任じられたが、病のため辞任した。後に龍驤将軍・中散大夫に復職した。さらに広平国内史を代行した。520年(正光元年)、相州刺史の中山王元熙が元叉を討つべく起兵したが、聞慰は元熙の使者を斬り、兵を出すのを拒んだ。このため元叉により、持節・平東将軍・滄州刺史に任じられた。後に平東将軍のまま散騎常侍・東道行台となった。まもなく安楽王元鑑の下で都督軍司となった。525年(孝昌元年)春、徐州刺史の元法僧が反乱を起こすと、聞慰は元鑑とともに元法僧を攻撃し、敗れて洛陽に逃げ帰った。敗戦の罪を糾弾されたが、赦免を受けた。この年のうちに死去した。享年は57。散騎常侍・安東将軍・兗州刺史の位を追贈された。諡は恭といった。
子女
[編集]- 畢祖彦(488年 - 537年、字は脩賢。侍御史から元法僧の監軍となり、元法僧が叛くと従って南朝梁に入った。永安年間に北魏に帰り、中書侍郎に任じられ、鉅平伯の爵位を嗣いだ。中軍将軍・光禄大夫の位を受けた)
- 畢哲(永安末年に秘書郎)