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申鶴鎮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
申鶴鎮
生誕 1911年11月6日
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮慶尚北道安東郡
死没 (1995-01-27) 1995年1月27日(83歳没)
大韓民国の旗 大韓民国ソウル特別市
所属組織  満洲国軍
大韓民国陸軍
最終階級 中校(満州国軍)
少将(韓国陸軍)
墓所 国立ソウル顕忠院第1将軍墓域275号
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申 鶴鎮(シン・ハクチン、신학진、申鶴鎭)は、大韓民国軍人本貫は平山申氏(평산신씨[1]創氏改名時の日本名平山茂雄[1]

経歴

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慶尚北道安東に生まれる。大邱高等普通学校卒業[1]

1930年4月、大邱医学講習所に入学[2]

1934年3月、大邱医学専門学校卒業[3]。卒業後は満州に渡り、満州国軍特任軍医に任命[1]。同年12月1日、任軍医上尉[4]興安騎兵第6団に勤務[5]

1936年2月20日、興安騎兵第5団附[6]

1938年5月5日、軍医少校[7]

1940年、平山茂雄に創氏改名[5]

1941年8月、軍医中校[1]

1942年、延吉治安部病院院長[1]

1945年3月、満州医科大学研究科を修学[1]

1946年6月21日付で軍事英語学校卒業、(軍番10107番)[8]

1946年5月1日、南朝鮮国防警備隊総司令部医務局長[9]

大韓民国政府成立後は陸軍特別部隊医務団長兼陸軍第1病院院長[1]。同年12月、陸軍大領[10]

朝鮮戦争では洛東江地区衛戍司令官となり、1953年9月には陸軍本部医務監に任命[1]

1957年2月、陸軍医務教育基地司令官[11]

1957年9月、少将で予備役編入[1]

1958年、慶北大学校で医学博士学位を取得[1]。以後、オヤン建業(오양건업)会長、大韓重石理事、郷軍医師会会長を歴任した[1]

1989年、正しく生きる運動中央協議会朝鮮語版会長(初代)[1]

2008年4月29日に民族問題研究所親日人名辞典編纂委員会が発表した親日人名辞典収録対象者軍部門に記載[12]

勲章

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 親日人名辞典編纂委員会 2009, p. 405.
  2. ^ 連続刊行物 朝鮮総督府官報「조선총독부 관보 제1011호 入學許可-慶尙北道立大邱醫學講習所」” (韓国語). 国史編纂委員会. 2021年5月24日閲覧。
  3. ^ 連続刊行物 朝鮮総督府官報「조선총독부 관보 제2172호 卒業生-大邱醫學專門學校」” (韓国語). 国史編纂委員会. 2021年5月24日閲覧。
  4. ^ 白楊会 1980, p. 431.
  5. ^ a b 白楊会 1980, p. 49.
  6. ^ 白楊会 1980, p. 705.
  7. ^ 白楊会 1980, p. 965.
  8. ^ 佐々木 1976, p. 89.
  9. ^ 호국전몰용사공훈록 제5권(창군기)” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. p. 593. 2021年5月24日閲覧。
  10. ^ 編年資料 資料大韓民国史「国防部、陸軍中領8人を大領に進級決定」” (韓国語). 国史編纂委員会. 2021年5月24日閲覧。
  11. ^ 連続刊行物 馬山日報「醫務基地司令官 申鶴鎭准將 着任」” (韓国語). 国史編纂委員会. 2016年12月27日閲覧。
  12. ^ “[명단] 친일인명사전 수록 대상자 4776명” (朝鮮語). オーマイニュース. (2008年4月29日). http://www.ohmynews.com/NWS_Web/view/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000889220 2021年5月5日閲覧。 
  13. ^ Shin Hak Chin”. Military Times. 2021年5月24日閲覧。

参考文献

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  • 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで』原書房、1976年。 
  • 白楊会 編『満州国陸軍軍医学校 : 五族の軍医団』白楊会、1980年5月。NDLJP:11933299 
  • 친일인명사전편찬위원회 編 (2009). 친일인명사전 2. 친일문제연구총서 인명편. 민족문제연구소. ISBN 978-89-93741-04-9 
軍職
先代
-
大韓民国の旗 南朝鮮国防警備隊総司令部医務局長
初代:1946.5.1 - 1947.12.28
次代
朴東均