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申朝紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

申 朝紀 (仮名:シン チョウキ, 拼音:Shēn Zhāojì?) は、初の漢人官吏。遼東出身、漢軍鑲藍旗人[1]

六部設置とともに刑部漢啓心郎に任命され、順治年間には布政使、都御史などを歴任した。

官位

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天聡8年 (1634)

崇徳3年 (1638)

順治元年 (1644)

順治2年 (1645)

順治4年 (1647)

  • 旧暦7月:山西巡撫から兵部右侍郎兼都察院右副都御史に昇格。宣大山西総督を兼務。[7]

略歴

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順治元年 (1644)、河南河北道として懐慶 (現河南省焦作市一帯) に駐箚し、李自成率いる賊兵20,000の来襲を大砲で撃攘した。[1]

順治4年 (1647) には管轄区内で立て続けに叛乱を平定。

  • 陽城 (現山西省晋城市陽城県?) の王希堯、賈国昌らが邪教を唱えて起こした叛乱に対しては、中軍都司の白璧を派遣して冀南道の武延祚とともに出兵させ、王希堯、賈国昌らを悉く討伐した。
  • 永寧不詳の銅柱寨に拠った汾州 (現山西省中部?) 兵営の兵卒・李本清、任自興らの叛乱に対しては、汾州に赴き、冀寧道の王昌齢らを出兵させ、李本清らを捕縛、要塞を焼き払った。[1]
  • 寧郷県[1][注 2](現山西省呂梁市離石区?) の楊春暢らが大衆を煽動し、冷泉寨不詳に拠って[1]叛乱を起こすと、平陽不詳営の副将・范承宗らを派遣して討伐平定した。[8]

翌5年 (1648)、死歿。[9]

脚註

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註釈

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  1. ^ 参考:『太宗文皇帝實錄』巻21 (天聰8年12月24日段1733) に「刑部啓心郎申朝紀」、「以申朝紀原係部臣。仍令在刑部辦事」とある為、啓心郎に就任したのはこれ以前と考えられる。
  2. ^ 参考:『世祖章皇帝實錄』巻32は「郷寧縣」とする。

典拠

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  1. ^ a b c d e “申朝紀”. 清史稿. 240. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷240#申朝紀 
  2. ^ “天聰8年12月24日段1733”. 太宗文皇帝實錄. 21. - 
  3. ^ “崇德3年7月25日段2348”. 太宗文皇帝實錄. 42. - 
  4. ^ “順治1年7月19日段3342”. 世祖章皇帝實錄. 6. - 
  5. ^ “順治2年7月22日段3675”. 世祖章皇帝實錄. 19. - 
  6. ^ “順治2年10月28日段3749”. 世祖章皇帝實錄. 21. - 
  7. ^ “順治4年7月14日段4196”. 世祖章皇帝實錄. 33. - 
  8. ^ “順治4年6月16日段4173”. 世祖章皇帝實錄. 32. - 
  9. ^ “順治5年3月11日段4371”. 世祖章皇帝實錄. 37. - 

典拠

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史書

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Web

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関聯

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