申朝紀
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申 朝紀 (仮名:シン チョウキ, 拼音:Shēn Zhāojì?) は、清初の漢人官吏。遼東出身、漢軍鑲藍旗人。[1]
六部設置とともに刑部漢啓心郎に任命され、順治年間には布政使、都御史などを歴任した。
官位
[編集]天聡8年 (1634)
崇徳3年 (1638)
順治元年 (1644)
順治2年 (1645)
順治4年 (1647)
略歴
[編集]順治元年 (1644)、河南河北道として懐慶 (現河南省焦作市一帯) に駐箚し、李自成率いる賊兵20,000の来襲を大砲で撃攘した。[1]
順治4年 (1647) には管轄区内で立て続けに叛乱を平定。
- 陽城 (現山西省晋城市陽城県?) の王希堯、賈国昌らが邪教を唱えて起こした叛乱に対しては、中軍都司の白璧を派遣して冀南道の武延祚とともに出兵させ、王希堯、賈国昌らを悉く討伐した。
- 永寧不詳の銅柱寨に拠った汾州 (現山西省中部?) 兵営の兵卒・李本清、任自興らの叛乱に対しては、汾州に赴き、冀寧道の王昌齢らを出兵させ、李本清らを捕縛、要塞を焼き払った。[1]
- 寧郷県[1][注 2](現山西省呂梁市離石区?) の楊春暢らが大衆を煽動し、冷泉寨不詳に拠って[1]叛乱を起こすと、平陽不詳営の副将・范承宗らを派遣して討伐平定した。[8]
翌5年 (1648)、死歿。[9]
脚註
[編集]註釈
[編集]典拠
[編集]- ^ a b c d e “申朝紀”. 清史稿. 240. 清史館
- ^ “天聰8年12月24日段1733”. 太宗文皇帝實錄. 21. -
- ^ “崇德3年7月25日段2348”. 太宗文皇帝實錄. 42. -
- ^ “順治1年7月19日段3342”. 世祖章皇帝實錄. 6. -
- ^ “順治2年7月22日段3675”. 世祖章皇帝實錄. 19. -
- ^ “順治2年10月28日段3749”. 世祖章皇帝實錄. 21. -
- ^ “順治4年7月14日段4196”. 世祖章皇帝實錄. 33. -
- ^ “順治4年6月16日段4173”. 世祖章皇帝實錄. 32. -
- ^ “順治5年3月11日段4371”. 世祖章皇帝實錄. 37. -
典拠
[編集]史書
[編集]- 馬佳・図海, 他『太宗文皇帝實錄』順治6年 (1649) 上梓, 1937年刊行 (漢) *中央研究院歴史語言研究所版
- 巴泰, 他『世祖章皇帝實錄』康熙11年 (1672) 上梓, 1937年刊行 (漢) *中央研究院歴史語言研究所版
- 趙爾巽, 他100余名『清史稿』清史館, 民国17年(1928) (漢) *中華書局版