田江泰造
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田江 泰造(たごう たいぞう、1871年1月17日(明治3年11月27日[1])- 1939年(昭和14年)6月5日[2][3])は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、日本画家。衆議院議員、鳥取県会議長、鳥取県東伯郡下北条村長。号・素堂、素道、素翁。
経歴
[編集]伯耆国久米郡弓原村(鳥取県[2]久米郡下北条村、東伯郡下北条村[4][3]弓原[5]、北条町[5]を経て現北栄町弓原)で、大庄屋田江弥三郎の長男として生まれる[5]。父が設けた自邸内の家塾・択善学舎で学んだ[5]。
農業を営み[2]、牧畜、蚕業の改良に尽力した[4]。また製糸工場を経営した[2][3][5]。下北条村会議員に就任[2][3]。1896年(明治29年)東伯郡会議員となる[4][2][3]。同年、鳥取県会議員に選出され7期30年間在任[2][3][5]。1927年(昭和2年)県会議長に就任した[2][3][5]。政党は帝国党、立憲同志会、憲政党、立憲民政党に所属した[5]。
1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(鳥取県郡部、帝国党)で当選し[4][5][6]、衆議院議員に1期在任した[2][3]。1906年(明治39年)下北条村長に就任し1907年(明治40年)まで在任し、1911年(明治44年)同村長に再任され1915年(大正4年)まで務めた[7]。
また、牧野芝石に書画を師事して山水画は玄人の域に達し、晩年、各地に滞在して書画の制作を行った[5]。
国政選挙歴
[編集]- 第7回衆議院議員総選挙(鳥取県郡部、1902年8月、帝国党)当選[4][6]
- 第8回衆議院議員総選挙(鳥取県郡部、1903年3月、帝国党)次点落選[6]
- 第14回衆議院議員総選挙(鳥取県第3区、1920年5月、憲政会公認)次点落選[8]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第14回』衆議院事務局、1924年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『鳥取県大百科事典』新日本海新聞社、1984年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 新修北条町史編纂委員会編『新修北条町史』北条町、2005年。